1997年7月に我が家は兵庫県明石市から東京都昭島市に移り住みました。新居の間近に、線路も放置されたままの廃線跡がありました。当時4歳の娘は毎朝、この線路で汽車ポッポごっこをしながら、線路の反対側にある保育園に通っていました。
この廃線跡は「中神側線」と呼ばれ、JR青梅線中神駅から旧立川基地に伸びていた引込線の跡です。戦前に「陸軍航空工廠線」として敷設され、戦後は米軍立川基地への補給線として使われていたそうです。1977年に立川基地が日本に返還されて線路跡も国有地になり、最近まで線路も含め20年にわたって放置されていたようです。
残念ながらこの線路は、昭島市の手によって1997年度中に撤去され、舗装された歩行者道路になってしまいました。線路跡で喜々として汽車ポッポごっこをしていた子供の姿は、「打ち棄てられた無意味な空間」の存在が実は有意味であったことを示しているような気がします。
【参考になる文献】
なお立川基地跡地の昭島市側には、中神側線のほかにも、基地があったことを示す興味深い名残がいろいろ残っています。それらを取材してまとめた「米軍立川基地の残骸」というページも開設していますので、ご参照下さい。
中神駅北側のフェンスに取り付けられている付近図。まだ側線が描かれています。
東中神駅南側に掲げられている付近図。まだ側線が描かれています。
昭島市は1999年度に市内の廃線跡の整備を行い、中神側線についても道路化するのに併せて、廃線跡のモニュメントを設置しました。(2000年5月5日撮影)
歩車共存道路として整備されました。→【1997年当時の同じ場所】
東西2線の分岐点に当時のポイント切替器を使ったモニュメントと解説板が設置されました。→【1997年当時のポイント切替器】
東側線路跡の終点は、富士見通りに接続されていました。間もなく車も通行できるようになるものと思われます。→【1997年当時の同じ場所】
なお同じ1999年度に、昭島市は同様なモニュメントを五日市鉄道廃線敷(大神駅跡)にも設置しました。こちらのページをご参照下さい。
都営中神アパート付近の廃線跡は幅が半分に分割され、歩道が片方に寄せられました。車道が拡幅される準備と思われます。
本ページの作者(中神側線軌道敷から自宅マンションをのぞむ)【拡大】