静岡県内の廃線についての書籍

Amazon 「静岡県鉄道興亡史」 森信勝著 静岡新聞社刊
静岡県内の廃線を調べるには、この本が最も参考になるだろう. 県内の短命に終わった数々の軽便鉄道など42線と、実現しなかった路線の計画などの、包括的な調査結果 が時代順に記載してある.42線から現在県内に存続している鉄道数を引けばあとはすべて廃線となるわけで、廃線歩 きの潜在的な対象となるであろう.私自身が、この本の中で最も興味を持ったのは、日本初の人車鉄道(人力で走る鉄道)が、私の 生まれ故郷である焼津市にあったことである.そのレールは木製であったらしいとの記述は、私の鉄道についての概念を修正しな ければならなくなってしまった. さらに、この鉄道(木道)は、私が、常に利用していた県道に沿って敷設されていたらしいことである. 私が子供のころ、この県道の旧道がまだ残っていたが、その舗装の下には、もしかしたら、この鉄 道の遺物が眠っていたのかもしれない.その旧道跡も近年実施された都市計画による区画整理事業によって完全に消えてしまい 今はもうどこにあったのかさえわからないのではあるが.
軽便の思い出―日本一の軽便鉄道・静岡鉄道駿遠線日本一長い軽便鉄道、静岡鉄道駿遠線.阿形 昭著 2005年 静岡新聞社 刊.

静岡新聞社編 「静岡県 鉄道物語」、静岡新聞社刊
前書が、包括的な研究書の部類であるのに対して、こちらは、もともと新聞に連載 していたものをまとめたものとのことで、一般向けの読み物である.県内の20線が紹介されている.1981年に発行された本であり、もう絶版かもしれないが、地元の 新聞社が発行した郷土を扱った本だけに、県内の図書館では容易にみつかると思う.
私は入手していないが、前著「静岡県 鉄道物語」から一部と新たに書き下ろしを加えた今は昔 しずおか懐かし鉄道 が2006に静新新書として、静岡新聞社より刊行されている.
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宮脇俊三 編 「鉄道廃線跡を歩く シリーズ」 JTB Can Books JTB刊
第7集まで刊行された、廃線跡歩きの火付け役となった本. 静岡県内に関連したものをあげておくと、
Y 飯田線旧線 ちょうど県境部であるが、かの有名なダム建設によって水没した区間.
X 堀ノ内軌道 昭和初期まで存在した、菊川町から浜岡町池新田までの軽便鉄道.
W 御殿場馬車鉄道鉄道・バスに馬車は公共交通手段の担い手としての役を譲ったのであるが、過渡的な形態も存在していた.
W 静岡鉄道秋葉線可睡斎に行く鉄道のあったことは知っていたが、本線の方は森町まで伸びていた.
W 東海道本線
沼津港貨物線
貨物支線とはいえ、もともとは東海道本線の資材輸送用に作られたため鉄道としての歴史は県下一古い.
V 千頭森林鉄道寸又温泉の名所飛竜橋は、電源、森林開発のための鉄道の遺構である.
V 遠州鉄道奥山線市街から北上し、二俣線を乗り越えて、引佐町奥山まで伸びていた.
U 豆相人車鉄道・熱海鉄道鉄道には人力によるものもあった.熱海への観光客の足として作られた、この鉄道の敷設工事は、芥川龍之介の「トロッコ」の舞台となった.
U 旧東海道本線
御殿場線
御殿場線は旧東海道線であり、廃線が残るのは、複線から単線に変更されるという非常に珍しい歴史をもつからである.
U 清水港線1日1便の旅客列車、1984年まで持ちこたえたのは、清水港が生産、物流の拠点であったからである.
T 静岡鉄道駿遠線名の示すとおり駿河から遠州(藤枝から袋井)まで走っていたこともある、日本で一番線路の長かった軽便鉄道.

私自身の廃線についての記憶


写真
今日の至るまで、特に鉄道に(ましてや廃線などには)興味をもって写真を撮ってきたわけではないのですが、 数ある写真のなかには廃線に関連したものもあります.WWWのページに公開してあるので、もし興味があったら、 ご覧ください.
二俣線 東海道線掛川駅から愛知県の新所原駅までは、二俣線が走っていた.現在も第三セクターとして 残っているので、完全な廃線になったわけではないが、JRからは見放されてしまった路線である. 私は、一回だけこの二俣線に乗ったことがあり、この時遠江二俣で車外を撮影した写真があるはずである が、まだ探し出していない. また、高校時代、天竜川まで自転車で出かけたことがあり、その時には、この二俣線沿いの道路を走った ので、二俣線の写真もいくつか撮った. これらは、二俣線のページに掲載した.
清水港線 清水駅のホームの端には、清水港線の乗場があった.清水駅を利用するたびにいつか乗ってみたいと 思ったものだが、終に84年廃線になってしまい、その機会は永遠の逃してしまった. この清水港線が巴川を越えていた橋は、船舶の進行を妨げないために可動橋であった. この可動橋を撮影した写真が1枚だけ残っていた.


中学生だったころの思い出 旧石部隧道
私は、遠洋漁業の町として知られた焼津市で生まれ育った.港町であるので、中学一年夏休みに、体験乗船の機 会があった.港から小さな船で沖を一周してくれるだけなのだが、初めて沖からみた町の光景は鮮やかな記憶とし て今も残っている.この時、焼津から東に向かって大崩海岸の断崖をはうようにつけられた国道150号線を目で追っ ていくと、道路のはるか下の波打ち際に、煉瓦のトンネルの残骸を見つけた.好奇心の強い中学生にとって、この発 見はそのままにできるはずもなく後日、友人と自転車で大崩海岸の急な車道を越えて、この地点に向かった.たぶん このあたりと検討をつけた地点から、道があったかどうか思い出せないが、崖を下り、目的の残骸に下りたった.この とき初めてこのトンネルが鉄道のものであることに気づいた.片方は崩落していたが上下2本のトンネルがあったから である.さらに草をかきわけて山側に進むと、こんどはいくぶん暗い色の煉瓦でできたトンネルの入口を見つけた. 大発見をした満足感とともに、この日は終わった.今思えば、最初の廃線の旅であり、できれば写真を撮っておきたかっ た.こちらのトンネルは、今ではもう見られないとのことだ.なぜ捨てられたのか、謎は、その後ずっと私の記憶のなかで燻 ぶり続けてきた. あるはずの、もう一方の入口を、機会のあるごとに見つけ出そうと試みたのだが、終に見つけられなかった.謎は、ずっと未 解決のまま年月は去っていった.終に解決をみたのは最近のことである.私は、「鉄道廃線跡を歩く」シリーズを書店でみ つけた.もしかしたら謎を解く糸口があるかもしれないと思い、さっそく買いそろえた.読んでいけば、いとも簡単にこの謎は 解けた.第V集の「鉄道構造物の見方・調べ方」では、廃トンネルを扱っていたのだが、石部トンネルの謎として、この トンネルのいきさつが述べられていたのだ.この日をもって、長年の懸案が消えることとなった. しかし同時に、解決によってできた心の隙間をうめるべく、新たな石部トンネル探しが始まることとなった.

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