伊予 菅生山観音寺(大宝寺)から西林山浄土寺

「若宮より新屋(大洲市新谷)迄壱里」
「加藤右京様右ノ弟子壱万石」
 
「加藤右京様」とは、大洲藩六万石の三代目加藤泰恒の分家当主の官名と思われる。
 
「上瀬ニ辺
(遍)路屋有 本尊弥陀 西遷寺前ニ妙猿ケ渕□□(虫食いのため2字の一部しか見えないが、
「あな」か)
かたしいと云名所有 かミたと(喜多郡内子町上田渡)村顔左衛門殿ニ一宿三月朔日晩也」 

 
妙猿ケ淵はどこにあるのだろうか。内子町大瀬から小田川と田渡川を遡って上田渡までの間で、名所という
 のにふさわしく、傍に寺がある場所は、田渡川の上流、高市川と合流するあたりではないだろうか。今は淵
 の上に薬師堂が建っているが、そこに西遷寺があったとも考えられる。「かたしい」とは険しい地形を表現
 する言葉のようだ


 翌日菅生山観音寺、海厳山岩屋寺へ向う。観音寺も岩屋寺も久万高原にある。

「菅生山観音寺【菅生山大宝寺】本尊観音嵯峨ノ天王ノ御願也 向権三郎兄弟四人建立 開山同氏兄弟 文武
 年中ニ建立すかう山ノ奥院迄三里」
 
 
寺伝では、安芸の明神右京・隼人という兄弟が草庵を結んで十一面観音を祀り、その奏上を受けた文武天皇
 が勅令によって大宝寺を建立した、と伝えている。しかし、一圓が聞き取った「向権三郎」などの出生順を
 示す通称は当時の時代相にそぐわず、また嵯峨天皇が奈良時代に存在するはずもない。寺僧がいい加減なこ
 とを言ったとも思えないので、記録は一圓の聞き間違いか記憶違いによる可能性も考えられる。
 元禄4年は、長曾我部元親の伊予侵攻から約100年後で、焼失した伽藍が再建されていた頃だ。


「海嚴山岩屋寺【海岸山岩屋寺】本尊本尊不動 大師ノ御建立 八百五拾年余」 

「とうの□(堂の坂か)越 多ノ川迄壱里 在所を行 右ニ大師堂有 大坂二ツ越 明神ノ社有 段々明神
 せりきり岩屋
(迫切岩屋・「逼割禅定」と呼ばれる大岩)さか木かつら(榊桂か)のせん人(寺に伝わる
「法華仙人」と思われる)
廿壱の橋子(梯子)ヲ上り別山権見(現)是より高祖権現白山権現 是より本堂
 迄明神権現 社二かい仁王門本堂に渡ル 奥院有 たい松ニテ案内付けそとは
(卒塔婆)をうけ 水ヲ祭り
 上ニ仙人堂有 十六ノ橋子ヲ上り仙人ヲ拝ス 堂橋子共ニ大師ノ御作□替久 せり切岩と申ハ 仙人岩屋ノ
 主ニて候を 大師」

「此所立ちのき候へと 被仰候へはのきたまわす(退き給わず) 然ハ不思議を見せ候へと被仰候へば 彼仙
 人大き成岩ヲせり切たまい 其奥に白山権現ノ社有廿壱ノ橋子ヲ上ッテ拝ス 
 此仙人生国ハ土州蓮池
(土佐市蓮池)ト申所ノ女ニテ 年十六ニテ男ヲ悪ミ(憎み)彼岩屋ニ籠り 仙人ノ
 勤一千年過て入滅被成しを 大師御願ニ移シ
(仙人の霊力と功徳を大師の祈願に転じて)一夜建立ニ被成候
 十六ノ橋子ヲ上り拝ス 御経の塔の右脇ニ御座候 御願
(施主)ハび志ゆ(毘沙)かつまノ作元禄四年未迄

「九百五十七年ニ成申由 五十間斗岩(90mほどの高さの岩峰)のかけ(岩窟)ニ 阿弥陀天竺より征鼓鍾木
 ヲ持日本此所ニ飛来給ふ 並そとは
(卒塔婆)弐本 高さ三十間斗之(50mほどの)岩のかけニ 大師御
 なけ
(投げ)給ふ壱本ハ貞享二年三月二日ニ失申由候 此岩上下共ニ人間ノかよい申事無御座候不思議也
 三月二日晩岩屋に通夜」

 
岩屋寺の塔頭は、山中の2つの大岩壁、五十間岩と三十間之岩に挟まれるように配置されている。一圓は岩
 屋寺について最も多くの紙面を費やしている。この寺の景観によく似ている故郷の千燈寺西ノ不動を想い
 重ねたのではないだろうか。


「医王山浄瑠璃寺【医王山浄瑠璃寺】本尊薬師十二神うきあな(浮穴)郡浄瑠璃村」

「熊野山八坂寺【熊野山八坂寺】 本尊弥陀うきあな(浮穴)郡 昔ハ廿壱坊 近代ハ十二坊 今ハ壱坊也
 寺中妙見院ニ壱宿 山伏也 三月三日晩ニ 江原村
(松山市恵原町)ニ大師堂有 町ノ西ノ方ニ 田ノ中ニ
 衛門三郎子供八人ノ塚有今ニ八つかとて是ニハいわれ有」
 大師に無礼をはたらいた報いを受けたという衛門三郎の伝承がある。八ツ塚は衛門三郎の8人の子の墓とされ
 「八ツ塚群衆古墳」として現存している。


「西林寺【清滝山西林寺】 本尊十一面観音浮穴郡高井村 西林寺より浄土寺迄壱里 此間ニ八幡之宮有 寺ハ
 壱坊 しようと
(浄土)寺より十五町」
「西林山浄土寺【西林山浄土寺】 本尊釈迦」

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