「繁多寺【東山繁多寺】本尊薬師うんせん(温泉)郡 東ハ山 此寺のけい(景)は見事ニ而候 此寺ニハ
四月廿五日迄弐百日ノ常念仏恵かう(回向)有
是迄廿町計(ばかり)は町石手村」
「石手寺【熊野山石手寺】本堂薬師行基の作 雲せん(温泉)郡 阿弥陀堂並十二所権現 ひわた(檜皮)屋
敷数五ツ 志ゆろうつく(鐘楼造か)並大師堂 塔ハ三階 仁王門ハ二階
寺ハ六坊 寺領百石国主より付 それより十五町下り とうこ(道後)の町ニて湯治仕 湯之町善六殿」
「ニ壱宿 三月四日ノ晩 それゟ(より)松山之城下松平隠岐の守様十五万 右町中其の外見物 弐里」
「太山寺【滝雲山太山寺】本尊十一面行基の作和気郡太山村 十八町」
「須賀山円明寺【須賀山円明寺】本尊阿弥陀行基の作 和気郡太山村 是より延命寺迄九里 あさなみ
(浅海)村番所有 切手ヲ改 菊間ノ伝兵衛殿ニ一宿 三月五日晩」
「延命寺【近見山延命寺】少山ノ上本尊不動行基ノ作 和気郡別宮迄壱里 是より三嶋ノ宮ノ前札也 三嶋
(大三島)ハ海上七里有故是ニテ拝ス」
今治から来島海峡を隔てた大三島の大山祇神社を遥拝した。
鎌倉期の「釈日本紀」には、大山祇神は摂津御島から大三島に鎮座したと書かれており、室町期の「神道集」
では遷したのは伊予の国造呼知命(おちのみこと)で、社殿は養老三年(719)に建立したと書かれている。
以来、三島神は越智氏とその後裔の河野氏の氏神とされてきた。
ただし、釈日本紀は伊予国風土記からの引用であり、伊予国風土記は散逸して原文は残っていない。
「三嶋宮【別宮山南光坊】本尊大通知勝仏 泰山寺壱里弐町 左は今治御城下 松平駿河守様三万石 此町ノ
太郎右衛門殿 ふろのほどこしにあい申候 番人也」
「近林山泰山寺【金輪山泰山寺】本尊地蔵大師ノ作野□郡(野間郡) 八ワタ(八幡)ノ宮迄十八町」
「八幡宮【府頭山永福寺】本尊弥陀秘仏 二町 山ノ上仙入寺(仙遊寺)迄二十町 南ニ当テ山ニ上ル」
「作礼山仙遊寺【作礼山仙遊寺】千手観音 是より国分寺迄壱里 新谷村(今治市)五郎兵衛殿ニ壱一宿三月
六日晩」
「国分寺【金光山国分寺】本尊薬師 行基ノ作 おち(越智)郡国分村 山上此村ニ新田吉助朝臣ノはかしる
し有 今治御家中より石塔建立」
新田吉助とは「脇屋義助」のことで、兄の新田義貞と共に鎌倉幕府を倒し、その後南朝方として足利幕府軍
との戦いの中、今治で没した。かなり前のNHK大河ドラマ「太平記」で石原良純さんが演じていた。
石塔は寛文9年(1669)に国分寺の発願により今治藩士が建立したもので、奈良大学・村上紀夫教授の「伊予
国分寺と脇屋義助廟」に詳述されている。
「横峰寺本尊大日 山上同郡」
「行基ノ作 国分寺より横峰寺へ七里 本作村之惣兵衛殿ニ一宿 三月七日晩 大戸村之妙音寺(妙雲寺の誤
記と思われる)へ荷物ヲ置 横ミねニ上ル」
60番札石鈇山福智院横峯寺で、石鎚山の北西の中腹、標高751mのところにある。
「仏光山横嶺寺【石鎚山横峰寺】本尊大日如来 さう王権(蔵王権現)ノ社 三社脇ニ有 此奥ニ前神寺石つ
ち山と云奥院有 是ハ六月朔日 同三日ならてハ此山ニ登ル事成不申 横峯より妙音寺(妙雲寺)へ帰り壱
宿 雨ふり三月八日晩 同九日朝立」
横峯寺の境内にあった仏光山蔵王権現社と思われる。この奥の標高1400mのところに石鈇山蔵王権現の
別当寺前神寺(通称奥前神寺)があるが、本寺機能と札所はすでに里の前神寺に移っていた。
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