「竹間沢車人形の歴史と特徴」
埼玉県三芳町竹間沢に伝承されている車人形は伝承元がわかっている。江戸幕府の末期、安政年間(1854〜1860年)にあきる村(現あきる野市二宮)の二宮神社の神楽師で古谷平五郎師(説経節六代目薩摩若太夫)の長女ていが川越藩の神楽師・前田佐吉師(別資料・左近師)のもとに嫁いできて、嫁入り道具に車人形を持ってきたのが始まりとされている。
古谷家は明治になると歌舞伎を習得し、その伝統は「秋川歌舞伎あきる野座」が古谷家歌舞伎名跡・尾上紋昇とともに引き継いでいる。なを神楽は山梨県小菅村に約百年前に古谷家から伝承されている。
車人形は江戸時代末期天保年間(1830〜1844年)文楽修行をしていた、山岸柳吉(埼玉県入間郡加冶村出身・初代西川古柳・注1)が碁盤人形にヒントをえて箱車を考案して、文楽人形を一人で扱えるようにしたものです。
車人形の地は説経節が担当しているが、浄瑠璃が担当することもある。
[参考文献:石川博司著「車人形を追う」:「多摩のあゆみ107号」大黒まや氏文章:竹間沢車人形公演パンフレット]
「竹間沢車人形」 定期公演日
未調査
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「竹間沢車人形」 演目
十数番あります。(とりあえず私がみたものだけ)
1) 寿式三番
2) 仮名手本忠臣蔵 三段目「殿中刃傷の段」
3) 仮名手本忠臣蔵 三段目「裏門の段」
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