台風



空一面を覆う分厚い雲がずんずん流れていき、生ぬるい湿った風の固まりが樹々の間をざわめきながら通り過ぎる。兆しがやってきた。
僕はテントの張り綱を再確認する。今夜でこのテントも終わりかも知れない。最大瞬間風速50mの大型台風がまっすぐこちらへ向かって進んでいる。海辺の砂浜から小高く盛り上がった林のなかのキャンプ地はかなり風を防いでくれるのだが、ザワザワと揺れ動く樹冠を見上げると、身体には緊張が張りつめてくる。これから展開する荒れ狂った暴風と豪雨の予感に気持ちは高ぶり、大自然の力に出会う期待と不安が入り混じっている。
断続的な風の音は徐々に強くなっていき、樹冠の揺れはそれ以上に大きい。まるで長い髪を円を描くように振り回す歌舞伎役者のようだ。グルン、グルン、グルン・・・。
僕は様子を見るために雨具を着ると林を抜け、砂浜へ出た。
砂浜へ出た途端、強烈な突風に吹き飛ばされそうになる。絶え間なく無数の砂の粒子が吹きつけ、風上に顔を向けることもできない。すさまじい風の勢いに立っているのがやっとだ。波立ち荒れる灰色の海は、白く泡立つ波頭を轟音とともに砂浜へ打ち付けている。しかしそんな波の音も、凶暴に耳元を掠め続ける風ににぶく霞んで響いてくる。なんてことだ、もうすでに台風の渦中に飲み込まれている。
そう気づくと、どうしたことか急にわくわく嬉しくなり、暴風に向いて目を閉じ、両手を広げてその場で大きくジャンプした。そのままグワッと1メートルほど後方へ押し流される。すごい。
力強くバランスを取らないとそのまま押し倒される。もう一度やってみよう、風に身を任せるんだ。
息を合わせて・・・、ジャンプ!
風はすばやく僕の体を捉えると包み込むようにしてグイッと押す。
風下へ向かって飛び上がると、宇宙飛行士のようにジャンプしながら歩いていける。
なんて楽しいんだ。激しくて荒々しい風の力を受けて、何度も何度も僕は夢中で飛んだ。
風はさらに勢いを増し続けてゆく。立ってられない。横なぐりに吹きつける砂の粒子に雨具を透して痛みを感じる。もう限界だ、充分楽しんだ。すでに暴風は僕の楽しめるレベルを超えている。体が前に進まない。不安、そして恐怖が頭をもたげる。風はその恐ろしい力を露わにして僕を翻弄するだろう。
前傾姿勢で激しい風に向かって歩き、林へ引き返す。なんて遠いんだ、焦りを感じる。早く引き返さないと・・・。体を横に向け、腰を低く落として進む。林に入ると同時に、フッと風が止む。
「エッ・・・?」
キツネにつままれたようだ。
しかしそれは木がしっかりと風をプロテクトしているからだ。見上げると樹冠は一層激しく揺れ動き、引きちぎられた葉が激しい風に飛ばされている。
しっかりと固定された山岳エクスぺディション用のテントは、まだこの程度の風ではびくともしていない。今夜一晩、台風を乗り切れるだろうか。
僕はテントのなかに入ってラジオの台風情報に耳を傾けた。台風はまっすぐこちらへ向かっている。直撃だ。風は林のなかでもみるみる強まり、塊になって吹きつけてきた。そのたびにテントのポールが強烈にしなる。海のほうから低くくぐもるような響きが近づき、やがて腹の底に響くうなりとなって林へ突入する。そのたび僕は津波に飲まれる恐怖に襲われ、うなりの行方を全身で追った。すさまじい風が通りすぎる・・・。しかしそれだけだ。波は来ない。
「よかった。」僕は胸をなで下ろす。
遠くで「ドーン!」と鈍い地響きがあり、地面が揺れる。木が倒れたのだ。
バシッという音をさせて、折れた枝がテントに叩きつけてくる。テントの窓からのぞくと、荒れ狂う風に狂気のように振り乱される樹々の姿が、厚い雲にも関わらず満月の月明かりを受けてうっすらと浮かびあがる。
なんという光景だろう、空を飛び交う木の葉や枝、叩きつける大粒の雨、海からとどろく轟音のようなうなり・・・。最早、何が飛んでいても不思議はない。魔物、妖怪、精霊、人魂・・・。
嵐のなかであらゆるものが影のように揺らめいている。
そのとき、ラジオが台風の目に入ったことを告げる。風は急速に止み、辺りはひとときの平和を取り戻す。張りつめていたものが切れ、力が抜ける。
テントの外を歩くと、そこには一面に葉をつけたままの大きな枝が散らばり、根こそぎ倒された木や中ほどから折れている幹周り1メートルもある大木の無惨な姿があった。テントの真横の背の高い木はヒラヒラ揺れる数枚の葉を残してほぼすべての葉を失い、真冬のようなさみしい姿で立っている。葉を失うことでこの木は倒れずに生きながらえているのだ。もしこの木が倒れれば、僕のテントはひとたまりもない。僕だって即死するかも知れない。この木の葉の犠牲は、僕にとってもありがたいことだ。
しばらくして風は再び強まり、吹き返しが始まったことを知る。
風は先ほどにも増して強く、しばしば突風が強烈にテントに叩きつける。ポールが折れないよう全身でテントを支えるのだが、一度緊張の糸が切れた僕にとっては長く厳しい時間だった。
時折、風が静まるとテントを出て外の様子を見に行った。荒れ果てた林と肌を舐める湿った風、上空を流れる分厚い雲、その光景を前にまっすぐ立って大きく息を吸い込むと、荒々しい自然の力の洗礼を受けて、普段は胸の奥深く眠っている自分のなかの野生が目を醒ますようだった。
僕は足を踏みしめて大地を感じ、すさまじい嵐に耐える樹々の強くしなやかな生命の力を想った。そして上空を吹きすさぶ烈風に、地球のもつ計り知れない力の一端をかいま見た。不思議な充足感が全身に満ちてゆく。それは僕自身もこの自然の一部だという感覚を伴って、体の奥深く浸透していった。
風は次第にその勢力を弱め、夜の闇が消え太陽が昇り始めるころにはそよ風に変わっていた。
僕はテントの前で大きく伸びをして辺りを眺めた。歩くのも困難なほど多くの木の葉や太い枝が落ちた地面、そして無惨に倒れた木々・・・。しかし多くの木は今も葉を繁らせている。そのなかで唯一、僕の横の木だけが、すべての葉を失っている。細く長いこの木は、葉が残っていれば確実に倒れていたことだろう。それもテントの真上に・・・。
この木はただ生き残るためにすべての葉を落としたのだろうか、それとも僕がここにいることを知って・・・。