ヒナイサーラ



 河口から広がるマングローブの森の彼方に一筋の美しい滝が見える。
 僕たちのカヌーは滝を目指して川をさかのぼる。亜熱帯の川は濃密に濁り、両岸に広がる森は直下に太陽の強い日射しを受け、原色の緑が眩しいほどに輝いている。
 滝から続く流れは蛇行しながらゆるやかに流れ、広々とした河口から海へとそそぐ。平坦なマングローブ林に覆われた汽水域は潮汐の影響を受けてその水位を大きく変える。引き潮になると水位はヒザまでもなくなり、カヌーが底を擦って進めなくなる。そのため川を遡行するには満ち潮の時間を利用する必要があり、限られた時間内に河口まで戻らなければならない。僕たちの持ち時間はおよそ4時間、これだけの時間があれば、滝への往復には十分だ。
 汽水のなかから伸びるマングローブは水中に細く複雑な迷路を作り、その間を小さな魚たちがスイスイすり抜けて泳いでいる。ここは小さな稚魚にとって格好の隠れ家だ。
 川を遡行してゆくうちに、強烈な太陽、この川とジャングルから発散する濃く力強い放射を受け、力にあふれた感覚が全身に満ちてくる。僕のなかの原始の生命力がムクムク立ち上がるようだ。ジャングルには生命が充満している。蝶が舞い、鳥がさえずる森のなかにカヌーのオールが立てる軽い水音が溶け込んでゆく。カヌーを漕ぐ手を休めてジャングルの気配を深く吸い込む。いつの間にか川幅は狭まり、両岸に鬱蒼としたマングローブの森が迫っている。突然、ジャングルにひそむ無数の目に見つめられているような感覚に襲われる。来た方向を振り返るが、もう辺りは森と川のほか何も見えない。ジャングルに秘められた深い魔力を感じて圧倒される。この場にじっと留まっていると、頭がクラクラしてジャングルの持つ邪な瞳の魔力に捉えられる。天を仰いだ。雲ひとつない突き抜けるような空がある。眩しい太陽を見上げるとジャングルを進む勇気が湧いてきた。怖れを手放すとマングローブに潜む無数の目は次第に消え去り、僕たちのカヌーはさらに深いジャングルの懐へ入ってゆく・・・。
 やがて川は渓流に変わり、ここからはカヌーを係留して歩いてゆくことになる。
 ジャングルの木々をかき分け、つる植物の棘に幾つもの引っかき傷をつくりながら細い道を進んだ。何度も道を見失い、ジャングルに生息する奇妙なトカゲやカメを発見しては喜び、僕たちは滝を目指した。
 20分ほど歩いただろうか、大きな滝の音が聞こえる。視界が開け、80メートルの高さから一気に落ちる美しい一本の滝が現れた。遠く河口から見たときには気品を感じさせるしとやかで美しい滝だが、間近で見る滝は豊富な水が土砂降りのように豪快に流れ落ち、風を巻き起こして白い濁流のような滝壺で渦を巻く。
 滝壺には巨岩がころがり、目の前の滝から涼しい風が飛沫をともなって吹き込んでくる。酸素をたっぷり取り込んだ微細な飛沫が風に乗って虹を創る。なんて気持ちいいんだろう。
 僕たちは滝壺で泳ぎ、はしゃぎまわった。水は冷たいが、太陽を浴びればすぐに身体は暖まる。一通りはしゃいだ後、僕は滝の直下の巨岩に登った。間近で見ると滝は轟音を立て、飛沫が恐ろしい勢いで叩きつけている。この滝の水を浴びるとどんな感じだろう・・・。
 僕は落下する水のなかに片手を延ばしてみた。イタイッ!
 80メートルの高さから落下する水の力は予想を超えていた。もう一度、反対の手を差し出す。
 ・・・やはりイタイ!
 どこまで耐えられるだろうか、半身を落下する滝の流れに入れてみた。ダメだ、5秒も耐えられない。痛みだけでなく、水の勢いに身体を押されバランスを崩して転倒しそうだ。
 しかし僕は再び滝のなかへ身体を差し入れた。全身を痛みが襲う。イタイッ、イタイ・・・。
 そのまま留まっていると、痛みは感じるけれど、それとは別の自分がいるような感覚を覚えてきた。
 痛いっ。僕の身体は痛みを感じている。僕自身は痛みと一緒になることも、その痛みがあることを知った上で痛みを自分から分離することもできる。そんな感じだ。
 滝のなかは落下する水の猛烈な力の場だ。その力を全身で受け止める。もう滝を怖れる必要はない。いつまでも滝のなかに留まることができる。僕はその場にあぐらをかき、目を閉じて水の力を感じた。
 激しい滝の轟音のなかで心は次第に静かになり、波ひとつない鏡のような水面が心に浮かぶ。周囲にはジャングルの気配がさざ波のように揺らめいている。すべては優しい風のように僕を包んでいる。平和だ。僕の心はこのジャングルの滝で宇宙空間を漂うように軽く自由になった。あらゆるものに親しみを感じ、ジャングルも滝も僕と重なってゆく・・・。
 轟音のなか、かすかに響く友人の声に目を開く。もう食事にしないと時間もない。
 立ち上がり滝をでると、フッと身体が軽くなる。これだけの力で滝は僕の身体を押さえていたのだ。
 燦々と降り注ぐ太陽が冷えた身体に気持いい。日射しを浴び辺りを見まわすと、滝もジャングルも今までよりずっと近く親しいものになっていた。
 僕たちは滝のそばで食事をつくり、絶えることのない笑いのなかでモグモグ頬ばった。
 出発のとき、一抹の寂しさを感じた。しかし僕たちは新たな力を得た冒険者のような気分でジャングルを抜け、カヌーを漕いだ。そして僕は自分のなかに大切な何かが加わったのを感じていた。