雨の森で





雨の日の森を歩くのもいいものだ。
しとしと降る雨は不思議なくらい心を静かにしてくれる。そぼ濡れた樹々の緑はいつになくみずみずしさを増し、明るくて、よく見ると葉の厚みも普段より肉厚になっている。枯れ葉を敷きつめた森の地面からは濃厚な土の香りが立ちのぼり、呼吸する度、僕は森に同化してゆくような感覚を覚える。
雨具のフードに落ちる雨音だけが耳元でパラパラと鳴り、僕を現実に留めようとする。
しとしと降る雨をしのげるほどに葉を繁らせた大きな木があった。僕は雨具のフードを外し、樹を見上げる。いい樹だな。水気をたっぷり含んだ新鮮な空気が頬を撫でる。
僕はその幹に両手の平を当ててみる。冷たくて気持ちいい。しばらくそうしていると、樹のなかを流れる水の気配が手の平に伝わってくるような気がした。目を閉じると、根から吸い上げられた水が勢いよく幹を登ってたくさんの枝へ別れ、さらに無数にある個々の葉へ運ばれ、そこから呼吸とともに空気中へ放散されてゆく様子がありありとイメージできる。僕の手はその流れのエネルギーに巻き込まれたみたいに、幹から放せなくなってゆく。
目を閉じたまま、この樹の幹に額も触れてみた。額が樹のなかへ融けてゆくようだ。樹のなかの流れは僕の体から何かを吸い込んで、そのまま木の葉から放散させていく。それは決して何かを奪われるような感覚ではなく、僕のなかに積もっていた塵芥を水とともに勢いよく吸い込み、洗い流してくれているようだった。体が、心が、頭脳が澄んでゆく・・・。
手の平は電気を帯びたようにビリビリして、額からは樹の持つ優しい、心を落ち着かせてくれる性質が伝わってくる。そのまますべてを受け入れてくれるような樹の幹に触れていると、僕は樹のなかに浸透して、樹とのつながりが生まれてゆくのを感じた。
自分が樹に溶け込み、浄化されてゆくようだ。このまま、ずっとこうしていたい・・・。
30分ほども経っただろうか、雨もやみ、森に光が射し込みはじめた。カケスが「ギャー」と鳴き叫びながら飛び立ってゆく。
僕はそっと樹から額を離し、上を見上げた。樹は眩しいほどの精気を放って空へ向けて枝を広げ、その葉には雨露が陽を受けてキラリと輝いている。
大地の深呼吸・・・。
そんな言葉が浮かんだ。僕は手の平もゆっくりと樹から離し、そのまま大きく息を吸い込んだ。
森がひときわ鮮やかになった。空を覆うように広がる樹々の緑が明るく躍動している。手の平にはまだ電気を帯びたような感覚が続いている。樹がまるで親しい友人のように身近に感じられた。彼はこの場所でどれくらいの時間を過ごしたのだろう。そうして何を感じ、何を想っているのだろう。
手を触れたとき、僕は彼のなかの躍動する力を感じた。額を触れて彼の優しくて包み込むように大きな存在を感じた。幾歳月もこの地に根を張って大地の養分を吸い上げ、陽の光を受けて、彼はその身体だけでなく内に秘めた生命も大きく成長させていったのだろうか。
僕はそばの岩に腰かけ、冷たい岩に両手をついた。手の平の電気がスウーッと抜けていく。
大地にアースされたみたいだ。
僕は樹に別れを告げ、滴のしたたる森を歩き出した。
樹々はいつもより明るく鮮やかだけど、何かを語りかけることはない。ときたま風に揺られた枝から滴がパラパラ落ちてくるだけだ。それで充分だ。水分をたっぷり含んだ森の空気を吸いながら、いつか樹々と人が普通に心を通わせる日が来るような気がした。
森のなかで僕は込み上げるクスクス笑いを感じながら、スキップのように軽い足取りで山を降りた。