生命の森





鬱蒼とした深い森をカメラを担いで歩いた。
樹齢千年を越える老木や幹周りが数メートルもある巨大な倒木、倒木で空いた空間には芽生えたばかりの若木が千載一遇のチャンスを逃すまいと日射しを受けて生長を競いあっている。
湿った岩の表面や樹々の幹は美しい緑色の苔に被われてふわふわしている。木漏れ陽も森のリズムに合わせるように淡い緑色がかかっていて、森のなか全体が緑のフィルターを透して視ているような感じだった。森にはたくさんの渓流が流れていた。澄んだ豊富な水は勢いよく谷を流れ、渓流の岩にぶつかって透明な水音を辺りに響かせている。クッションのような苔に吸収されて丸みを帯びた水音は、優しいリズムの音色になって僕を包み込んでくれる。渓流の飛沫を受けて両手に水をすくい口に含むと、少し甘くて冷たくて、身体の中に森の生命のリズムを取り込んでいるような感覚になる。
風に揺れる樹々のざわめきに顔を上げると、斜面の上に鹿の親子が草を喰んでいる。鬱蒼とした森は暗すぎて鹿をカメラに収めることはできない。僕はそのまま岩に腰掛けて静かに鹿を眺める。
鹿は時々僕の方を見て警戒しながら、それでもゆっくりその場で草を食べ続けた。母鹿は常に子供の様子を見て気を配り、子鹿も母親から離れてしまうとすぐ母を捜して寄り添って草を食べる。親子はもくもくと草を食べながら、やがて深い森の奥へと消えていった。豊かな森の恵みは多くの生命を育んでいる。
僕は苔むした樹々や淡く緑を映す水の流れにカメラを向けた。樹は様々な風貌を持って迫り、森は深さをたたえ、時折降る雨や風、霧がさらに変化に富んだ表情を添えてくれた。そこにもここにも、あらゆるところに被写体があった。僕は被写体を求めて強い眼差しでそこらじゅうを見つめた。
”これはきっといい写真が撮れる!”
”よし、このアングルだ。”
”これはいい、絵になる立派な樹だ・・・”
どんどん撮影にのめり込み、夢中でシャッターを切った。そしてひとつの渓流で苔むした岩面を伝う水の流れを撮ろうとしたとき、アングルが厳しくて三脚を濡れた岩の斜面に据えることになった。シャッターを切り、カメラから離れた瞬間、ザバッと大きな音とともに三脚が倒れ、カメラは川のなかへ落ちてしまった。急いで引き上げたときにはすでにカメラは水浸し、ボディからは水が滴り落ちていた。水中の岩に激突したらしく、シャッターボタンは変形し、もはや再起不能は明白だ。
あきらめるしかないな・・・。
ふと見上げると、森が違って見えた。いままでと気配が違う。濃厚な森の芳香と水音を包み込むような大きな静寂、なにか強烈な存在感が森のなかに満ちている。
鹿の消えた森のさらに奥へと続く生命の営みがあり、樹は太陽の光を受け、豊かな水を大地から吸い上げ、刻々と成長し呼吸をしている。そんな森の息づかいを感じ、森の深さが増していった。
決して恐ろしくはない。生命を育む優しさを内に秘めた深さだった。
身体の緊張は緩み、自分の眼差しが変化しているのを感じた。
そっと母に寄り添う子鹿のような・・・。
僕は小さな岩を選ぶとその上に腰掛け、森の気配を吸い込んだ。目を閉じ、耳を澄まし、風を感じる。森は僕を深く包んで受け入れてくれる。なんだか宇宙に浮かんでいるような心地のやすらぎだ。
”何も畏れることはない、そのままでいいんだよ・・・”
そんな声が聴こえてくるようだ。僕の生命も森に育まれているのだろうか、とても気持ちいい。
やがて薄い霞も消え去り、苔むした岩肌に木漏れ日が差し込んできた。明るくなった森は鳥たちのさえずりが響き、生命にあふれてすがすがしい。僕はすっかり満ち足りた気分で森を歩き、いつにも増して自然の息吹を感じた。こんなに生命に満ちた森のなかで、僕は今まで何を見ていたのだろう。目に見えるものをはるかに越えた生命に満ちたこの森で・・・。
そして僕はふと想った。たまにはカメラを失うのもいいものだ。