小さな水



水がこんなにすばらしいと感じたのは初めてのことだった。
半砂漠のような荒れた土地を旅して、この1ヶ月の間澄んだ水を見たことがなかった。
飲料水はペットボトルのミネラルウォーターのみ、川もこれだけ旅しても2〜3本しか見ていない。それもほとんどはどんより濁った小さな川ばかり。
白っぽく乾いた大地には点々とサボテンが生えているが、それも僕の乾きを増すばかりだった。たまに出会う巨大なサボテンのジャングルもその鋭い棘で人を寄せ付けず、そんな土地では小さな草までが棘を持っている。いくら注意をしていても、知らぬ間に触れた棘で身体のあちこちがチクチクする。うっかり大きな棘に刺されると棘を抜いた後にもちょっとした穴が空き、1週間は痛みが続く。つねに僕の心は緊張し、乾いていた。
そんなある日、山中の丘を越える道の脇にベタベタに濡れた水たまりを見つけた。小さな流れが地面を這い、ごみがパラパラ散らばる路肩の窪みを流れてゆく。
流れのもとを辿ると路肩の斜面から一本のパイプが突きだし、そこから透明な水が流れ落ちている。
”水だ、透明な水だ!”
それは本当にささやかなものだった。日本でならきっと誰も見向きもしないような水だ。
僕はその水を手に取ってみた。冷たい。
おそるおそる、すこし口に含んでみる。
”うん、大丈夫。飲める。”
辺りを見回すと、この辺だけ棘のない、風になびく柔らかくてみずみずしいサラサラの草が生えている。頬を寄せて草を感じる。きれいな緑の草々・・・。
えも言われぬ笑いが急に込み上げてきた。
”水、水がある。草だってある。ほら、水!ほら、草!”
パイプから流れ出す水を見ているだけで笑いが止まらない。
乾いた土地での長い緊張が解けたのか、自分でも制御できない笑いが心の底から次々と湧き出してくる。
”いのちの水”
そんな言葉が今頃わかった気がする。いつまで経っても笑いは止まらない。僕の思考と関係なく、緑の草を見て、透明な水を見て僕は笑い続けている。まるで僕のいのちが笑っているみたいだ。
喜びに満ちた心で耳を澄ませ水音を聴く。すると風に揺れる草の音も一緒に届く。心地よい響きに身を任せ、僕はそのまま軽い眠りについた。
瞼を通してまぶしい陽の光が射し込んでくる。
辺りで風や草、水の流れが一体となって、小人たちが踊るような軽快なリズムを奏でている。
込み上げる笑いは、いつの間にか小春日和のような静かで平和な喜びに変わっている。
何故だろう、ひとすじの涙が頬を伝う。
”ありがとう”
誰に対してということもなく、そんな言葉が出てくる。
ちいさな小さな、素敵な水・・・。

しばらくして、この土地に住む老夫婦がやってきた。
老婦人はこの水の横に作られたキリストらしい石像のある小さな祠にロウソクを立て、祈りを捧げた。その間、夫はパイプから流れ落ちる水を手にしたポリタンクに貯めている。
「いい水だろう。この地にはめずらしく飲める水さ。」
老人は若者やツーリストが捨てて行った空き袋やたばこの吸殻などのごみを拾い集めながら話しかけてきた。
「今では誰も見向きもしなくなったが、私たちには大切な水さ。私はこの水を死ぬまで使いたいんだ。」
街や集落からも離れたこの水をわざわざ汲みに来る人はほとんどいない。人々はタンクに入ったミネラルウォーターを買っている。そのほうが便利で手軽だ。それに乾期に水が涸れることを心配をする必要もない。こうして人は土地から離れてゆくのだろうか・・・。
老夫婦は身体が動くかぎり、この水を使い続けるだろう。
しかしいつか、彼らがいなくなったとき、この小さな水は守られるのだろうか。
それは僕には答えの出せないことだった。
この地に暮らす人々、そして私たちが大切なことに気づくまで・・・。