序章・海辺の夜



 僕がその島を訪れたのは、もう何年も前のことだ。
 亜熱帯の植物が醸し出す独特の濃密な熱気に覆われた島は、巨木が天高く伸びる鬱蒼とした森や豊かな恵みを与えてくれる深く澄んだ青い海に囲まれた原色の異界を想わせ、僕はその世界のなかでジリジリ強烈に照りつける太陽の光を浴び、野生に帰ったような晴れやかで生き生きしたパワーを心の中に感じていた。
 毎日深くどこまでも続く森を歩き、大地の語る遠い物語に耳を傾ける老賢者を想わせる曲がりくねった皺だらけの巨大な樹木に触れ、色鮮やかな原色の衣装を纏った美しい野鳥の軽妙なリズムの囀りに耳を澄ませた。遠くもの悲しい声で鳴く鹿の美しい瞳に魅せられ、群になって樹々の間を軽々とゆく猿の姿に目を見開き、激しく流れるミネラルをたっぷり含んだ冷たい川の水をガブガブと飲み、海では穏やかな波のリズムにからだを揺られて浜辺で休み、優しい風に黒く灼けた肌をゆだねた。それは楽園の日々といってもいい、心安らぐ調和の世界だった。
 しかし、この島は僕にもっと不思議なものを与えてくれた。それはまだ体験としてしか表現できないけれども、地球の生命への共感をはじめて感じたときかも知れない。




 それは心ときめくような美しい夜だった。
 闇のなかに響くきらめくガラスのような虫たちの澄んだ鳴き声に誘われてテントを出ると、透明な風が優しく肌を掠め、空には漆黒の地上を覆うように満天の星が降り注いでいた。
 暗闇のなかを星の光に誘われてひとり海辺へゆくと、砂浜に響く穏やかな波音が体を揺らす。
 暗闇も星の光のなかでは素敵な神秘の衣を纏い、大地は母のように僕を抱く。
 心地よい時の流れのなかで、ふとひとつの音に気づく。
 ”ザッ・・・、ザッ・・・、”
 暗闇にそっと光を向けると、そこには大きなウミガメが照らし出された。
 僕は背の高い草むらの影に隠れ、遠くから彼女を見た。
 その気配に気づいた彼女は体の向きを変え、海へ帰ろうとしている。
 まだ産卵もしていないはずなのに・・・。
 波打ち際へ引き返す彼女に近づくと、そっと声をかけた。
 ”ごめん、驚かすつもりはなかったんだ。僕は敵じゃない、僕も手伝うからもう一度引き返して産卵しようよ”
 彼女はじっと波打ち際で立ち止まったまま、僕の様子をうかがっていた。
 彼女の1メートルほどもある大きな背中に触れる。分厚くて固い立派な甲羅だ。
 ハンドボールくらいの大きさの彼女の頭にもそっと触れてみる。大きな黒い瞳が美しく澄んでいた。
 恐れる様子もなく、彼女は水辺を向いたまま立ちつくしている。
 甲羅の上から何度も背中を撫で、声をかける。彼女はじっと、僕の手から、僕の声から、僕の動作から何かを読み取ろうとしている。
 ”さあ、産卵しよう、大丈夫だよ・・・”
 ”ザザッ!”
 長い時間が経ち、彼女は決意したように大きな体を反転させ、再び浜辺のほうへ向かった。
 ”そうだよ、さあ浜辺へ行こう”
 彼女の行く手をライトで照らし、僕は彼女とともに産卵に適した場所を探しはじめた。
 彼女はまず砂浜の中ほどで立ち止まり、後ろのヒレで器用に砂を掘り始めた。しかし砂を掘り始めてしばらくすると地中に大きな石が現れた。それ以上掘り進むことができなくなった彼女は丁寧に砂を後ろ足で元に戻し、痕跡を残さないほどきれいに埋めてしまった。
 僕はライトを照らして共に歩き、岩や石のなさそうな場所を見つけると彼女に知らせた。
 彼女はライトを頼りにその場所へ行くと、また穴を掘る。しかしこの砂浜の下には大きな石がごろごろとあるらしく、半ばまで掘るとまた石にぶつかった。
 何度も同じことを繰り返しへとへとになりながらも、僕たちはまた別の場所を探した。
 そうして七度目に掘った穴がついに、深く深く彼女の後ろ足のヒレによって掘り下げられた。

 産卵は長い時間をかけて行われた。
 ひとつ、またひとつと彼女の卵管から穴のなかへ白いまん丸の卵が産み落とされてゆく。
 ”純白の生命”
 けがれのない美しさが僕を魅了する。白い卵は大地の温もりに抱かれて育ち、やがて彼女のように海へと還る。そうして厳しい試練を乗り越えて生き残った者が再びこの地を目指して還ってくる。太古から営々と繰り返されたこの営みは、新たな生命によって引き継がれてゆく。
 そのとき、この大地は再び彼女らを暖かく迎えることだろう。
 しかし、「ひと」が彼女らの営みの地に踏み込んでいるこの時代、僕たちは本当にこの営々と続く地球の営みを守るり続けることができるのだろうか。この営みのなかで、大地は僕たちに何を語ろうとしているのだろう。

 彼女が卵を産む間、僕は彼女のそばですっかりくつろいで待っていた。
 無数の星と波のリズムが心地よく、彼女のそばで僕はまどろむような気分だった。
 産卵が終わると彼女はその場をきれいに砂で埋め、海へ向かってゆっくり進んだ。

 波打ち際で彼女と別れると、僕は海へと突きだした岩の上から彼女を見送った。
 波間を沖へ向かって泳ぐ彼女が振り返って僕を見た。
 ”さようなら・・・”
 一瞬、目が合った。
 彼女はスゥーッと海の中へ消えていった。

 波の音を聴きながら、僕は不思議な気持ちになっていた。
 あの一瞬、彼女の目が語りかけたものは僕にとって宝石のようだ。
 感謝、共感、いたわり、優しさ・・・、そして友情。
 僕たちはこの世界でいつも繋がっている。生命は種という枠を超えて理解し心を通わすことができるんだ。そして神秘と謎に満ちた生命は僕のなかにも満ちている。その真実はかけがえのない愛おしいものだ。
 彼女はこの砂浜で役目を果たし、広大な海へと帰っていった。母なる海のなか深く・・・。
 そして彼女は、僕のなかにも何かを産み落としていったような気がした。
 彼女に遭ってから、いつしか僕の心も旅を始めていた。そう、僕も知らぬ間に・・・。
 美しい星空はいつの間にか白みはじめ、南の島には朝の訪れが近づいていた。