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 夕陽が沈むと同時に今まで重く全天を覆っていた分厚い雲がさっと朱に染まる。
 その色は目の前に広がる海に照り返され、世界を一瞬ひとつの色に染めあげる。背後に広がる荒涼とした砂漠も潮の干いた遠浅の海も、分厚い雲までもすべてがその瞬間一体になったようだ。

ラグナの夕景 その光は僕の身体までも包み込み、朱く染まった手の平を見ていると僕の身体が世界に溶け込んでいくような錯覚に陥る。
 ラグナ・サンイグナシオ - バハカリフォルニア半島の中部太平洋側のこの神秘的な海には冬の間コククジラが子育てのために遠くアラスカの海からやってくる。その間、湾の入り口付近にはコククジラの親子が群れをなして暮らしている。
 クジラに会う前夜、美しく朱色に染まった海岸段丘の上にテントを張り、その神秘的な夕景を見つめていた。遠浅の海には赤や青、黄色、白色の繊細な模様に彩られた小さな巻貝が足の踏み場もないくらいびっしりとひしめきあっている。それはこの海の豊かさを表わしているのだろう。

 ふと何かを感じて後ろを振り返ると一羽のカモメが僕の後をついて来ている。常に一定の距離を保ち、僕が止まると同じように立ち止まり、歩きだすとまた着いてくる。それは子供の頃よくやった遊び「だるまさんがころんだ」のようだ。子供の頃の遊びとこのカモメの姿が頭のなかで重なり、笑みがこぼれる。

 段丘の段差に腰掛け、夕焼けにシルエットで浮かびあがるカモメを見ていると、カモメも少し離れた段丘に飛び上がり、そのまま夕景を見ている。
 いつの間にやってきたのかもう一羽カモメが舞い、それに誘われるように僕のあとを着いてきたカモメも飛び去る。二羽のカモメは朱色に染まった海上を舞い、そのまま遠く点になって視界から消えていった。
 海からの心地よい風が頬を掠める。
 波もなく静かに広がるクジラの棲む海を見ていると、僕たちは太古の時代から綿々と続く悠久の時間を生きているんだという不思議な感覚になる。

スパイ ホッピング 今から6000万年も前、クジラの祖先は陸から生命の故郷である海に還り、陸生の哺乳類とはまったく違う進化の道をたどることになった。そして200万年前には現在のクジラはすべてこの地球上に現われ、そのまま今日まで広大な海洋で生きてきた。彼らは水中での進化のなかで大きな脳を持つようになったが、人間のような種類の文明を築くことなく地球の環境と調和したサイクルのなかで生きてきた。人類よりはるかに永い年月、環境に手を加えることなく自然の恵みを享受して生きてきたクジラはその大きな脳でいったい何を考え、この世界をどのように捉えてきたのだろうか。

ラグナの海 我々のような現在の人類が地球上に現われたのが今から5〜6万年前、そのうち記録に残された歴史時代は数千年に過ぎない。このわずかな歳月のなかで人類は大変な変化を遂げ、地球を破壊しうるほどの力を持つようになった。それは広大な海に住むクジラにとっても大きな脅威となり、非常に多くのクジラが捕獲され、さらに現在は新たに人類による海洋汚染が彼らの身体を深く蝕んでいる。

 しかし絶滅が心配されるほどの大量捕鯨時代を経て、今日ではしばしば彼らは積極的に私たちのそばにやってきてそのエネルギーに満ちた巨大な姿を見せてくれる。クジラたちの優雅な姿を見ると私たちは不思議なほどの喜びに全身が沸き立ち、とても前向きな気持ちになる。私たちは彼らの一挙一動にはしゃぎ、彼らと出会えた喜びを全身で表現する。それに応えるかのようにたくさんのフジツボを全身に付けた一頭のクジラがゆったりと私たちの船に近づき、その優しさにあふれた小さな瞳で船上の私たちを見つめる。本当に優しい瞳だ。その深く優しい瞳の奥で彼らは私たちに対してどのような気持ちを抱いているのだろうか・・・。

 お互いが歩み寄れるようになった今、私たちはようやく彼らの心の深みを受け止める準備が整いつつあるようだ。

ラグナの海・夕景 辺りはすっかり暗くなってきた。風が強まり、海岸の段丘に突き当たった風が腹の底に響くようなうなりをあげている。

 テントの張り綱をしっかり張り直さないといけない。
 さあ、明日はクジラに逢えるだろうか。
 風は次第に強さを増してゆき、眼前に広がる海は境目のない深い闇に覆われてゆく・・・
もしかすると、この悠久の時間のなかではクジラでさえまだ新参者なのかも知れない。

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