2000夏京都・街

●到着して気づいた変化

7月27日の記録に街の変化を列挙しておいた。その際の感想を記しておく。

1990年代前半の変化は、建都1200年に沿った、重点観光地向けの変化が中心だったように思う。それ以降めちゃくちゃに大きな変化は少なかったが、京都バブルが引いて、街を歩く人々が減少傾向にあったのは感じていた。なにしろ建都1200年の1994年は、繁華街の道が人だらけだったのに、今はそういう場の方が少ない。

その対策として、京都ホテル再開発と、京都駅リニューアルがあった。新しい駅とビルが完成すると、そこから波がうねり出したように衝撃が波及していく。来るたびに、何か大きな変化がある。

OPAが建ったのは予測の範疇である。むしろ、河原町三条の顔であり、映画を見て本を物色して、と楽しい場所の代名詞であった駸々堂がなくなったことが大きい。ただでさえ河原町四条のオーム堂書店、京都書院(ついに書店部門だけでなく出版部門もなくなった)がなくなった後だ。跡地が本屋になったのは救いであるが、駸々堂は三省堂や東京堂書店のように出版部門を持っていた。そういう店が消えて、CDショップのHMV、Tower Records、Virgin Megastoreのような「現地直送物産大量展示」型の店だけになっていくことは、あまりにつまらない。
観光以外の京都は、厳しい環境にさらされているのだろう。しかし、京都が横浜のようになっていくのが成功とは思えない。横浜は、明治以前が漁業だけの寒村ばかりであり、何もないところから街を築いてきた記憶も新しい。京都は蓄積の重さがあり、やはりそれを活かすほうが有利なのではないか。今後、どのような街作りを目指していくのだろう。

 

●カフェの増加

カフェの増加は著しい。元々喫茶店の多い土地柄ではあったが、この増え方はすごい。河原町通と烏丸通の間を東西に渡る三条通が「カフェ通り化」しているのはもはや有名だが、河原町通と木屋町通の間をつなぐ繁華街路地、風俗店舗から少し離れたあたりにも増えているし、御池通を渡って二条へ向かう寺町通(区役所脇)にも見える。

カフェという言葉は、フランスはパリのカフェ、イタリアのバールを基本においた、明るい店を指す。「カフエ」と「エ」が大文字になれば、大正から昭和初期に流行り、女給さん目当てに通う客の多かった店。それに対する戦後の「純喫茶」は、つまり純粋にコーヒーを飲む店。この純喫茶を中心に栄えた喫茶店の多くは、ドイツ=オーストリア文化圏にあやかっていて、コーヒーだけでなく店内も琥珀色を連想させる店が多く、外から閉じて、落とした照明で静かに考え事をしたり、新聞や本を読んだり、また人と語らったりする。1970年代以降、脱サラ夫婦経営の喫茶店の隆盛は、もうちょっと明るい店やファンシーな店が増えたが、東京でも関西でもある程度の淘汰が進んだ今では、むしろ純喫茶系の喫茶店が残ったともいえる。

オープンカフェ以降の「カフェ」は、スターバックスを中心に明るい光と解放感がある。これはこれ、しかし、喫茶店でも生き残ったよい店はやはりよい。京都は特に、イノダコーヒー、前田珈琲、六耀社などを筆頭に元気な店が多い。
一方、新規開店のカフェは洋館再利用型、町家再利用型、デザイナーによるものと多彩、メニューも和・仏・伊・中国からの混交と自由自在。

東京など関東圏との最大の違いは、新しいカフェと喫茶店が両立のまま展開していることだ。
元々喫茶店・カフェを経営しやすい土壌でもあるのか、とにかく老若男女を問わず店に入るし、客層の空気を読めない客を追い出すような雰囲気がないようにも感じられる。

喫茶店店主の世代交替が進む時期をうまく乗り越えた街であり、カフェ天国は当分続きそうだ。

 


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