王仁 わに 生没年未詳

古事記には和邇吉師(わにきし)とある。応神天皇の時代に百済より来朝。『論語』『千字文』を伝来し、皇太子宇治稚郎子(うじのわきいらつこ)に典籍を講読したと伝わる。書首(ふみのおびと)などの祖とされる。楽浪郡の豪族の王氏の後裔とする説や、百済第16代辰斯王の子辰孫王とする説などがある。

 

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

【通釈】難波津(なにわづ)に、咲いたよこの花が。冬の間は籠っていて、今はもう春になったというわけで、咲いたよこの花が。

【語釈】◇難波津(なにはづ) 難波の港。難波は大阪市及びその付近の古称。仁徳天皇の高津宮が置かれた。◇この花 「木の花」と解する説もある。古今集仮名序に添えられた古注は「梅の花を言ふなるべし」とする。但し桜の花とする説もある。◇冬ごもり 万葉集では「春」の枕詞にも用いられる。

【由来】『古今和歌集』仮名序に「おほささきのみかどを、そへたてまつれるうた」(仁徳天皇を諷した歌)として出ている。万葉巻十六の「安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに」とともに「和歌の父母」とされ、初めて書を習う人の手本とされた。また仮名序の古注には「おほさざきのみかどの、難波津にてみこときこえける時、東宮をたがひにゆづりて、位につきたまはで、三とせになりにければ、王仁といふ人のいぶかり思て、よみてたてまつりけるうた也、この花は梅のはなをいふなるべし」とあり、王仁が仁徳天皇に献った歌とする。西暦12世紀中頃の『和歌童蒙抄』には「古万葉集に云、新羅人王仁が大鷦鷯天皇に奉れる歌なり」とあるが、現在伝わる万葉集にこの歌は見えない。

【他出】古今和歌六帖、和漢朗詠集、俊頼髄脳、和歌童蒙抄、奥義抄、古来風体抄、八雲御抄

【主な派生詩歌】
冬ごもり忍ぶとすれば難波津に咲くや木の花ちりもこそすれ(馬内侍集)
難波津に冬ごもりせし花なれや平野の松にふれる白雪(藤原家隆[続古今])
難波江にさくやこの花白妙の秋なき浪をてらす月かげ(藤原定家)
難波津に咲くやむかしの梅の花今も春なるうら風ぞ吹く(九条良経[新勅撰])
難波津にさくやこの花朝霞春たつ波にかをる春風(後鳥羽院)
難波江や冬ごもりせし梅が香のよもにみちくる春の汐風(*藤原為家[続千載])
難波津の昔の風はことなれど我が世春べとさくや梅がえ(後宇多院[新千載])
時ならぬうつ木垣根の冬籠り咲くや此の花雪とみえつつ(宗良親王)
難波津のむかしをかけて匂ふなりあれにし里に咲くや此の花(後崇光院)
民の戸のけぶりを見てもなには人なみになこひそさくや此の花(正徹)
散るもののさりとてたえぬながめかな春いくかへり咲くやこの花(細川幽斎)
春といへばなにはのことも種となる心の花にさくやこの花(飛鳥井雅章)
蘆がきのまぢかき春の隣より雪にまじりて咲くや此の花(後西院)
浪速津にさくやの雨やはなの春(宗因)
先づ祝へ梅を心の冬籠り(芭蕉)
難波津や田螺の蓋も冬ごもり(〃)
豊秋津みづほの国にみづ枝さし咲き栄えゆく花はこの花(*栗田土満)
桜さへ今はさかせて難波人梅が香そふる冬ごもりかな(加納諸平)
うれしくも年のはじめのけふの日の名におひいでてさくやこの花(大隈言道)
冬ごもりこらへこらへて一時に花咲きみてる春は来るらし(*野村望東尼)
難波津に咲く木の花の道ながら葎繁りき君が行くまで(与謝野晶子)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月16日