後崇光院 ごすこういん 応安五〜康正二(1372-1456) 諱:貞成(さだふさ)

崇光院の孫。伏見宮栄仁(よしひと)親王の子。母は中納言三条実治女、治子。養父は今出川公直。法名、道欽。後花園天皇貞常親王の父。
応永五年(1398)三月五日、誕生。今出川公直夫妻に養育される。不遇の半生を過ごし、元服したのは四十歳、応永十八年(1411)四月四日、父栄仁親王の伏見殿においてであった。以後は伏見殿に住む。同二十三年十一月に父が、同二十四年二月に兄治仁王が相次いで死去し、伏見宮家を相続。同三十二年四月十六日、親王宣下。同年七月五日、伏見指月庵にて出家。道欽と号す。正長元年(1428)七月、称光天皇が後嗣を得ぬまま崩ずると、子の彦仁王(十歳)が幕府の推挙により践祚した。同七年十二月、京都一条東洞院の新邸に移る。永享八年(1436)四月、仙洞御所旧跡を管領する。文安四年(1447)十一月二十七日、太上天皇の尊号を受ける。康正二年(1456)八月二十九日、崩ず。八十五歳。
和歌は栄仁親王・冷泉為尹・飛鳥井雅縁ほかの指導を受ける。永享六年(1434)、新続古今集撰進にあたり永享百首を詠進。宝徳元年(1449)頃、仙洞歌合を開催。私撰集『菊葉集』に若年時の作が「従三位政子」の隠名で多数入集。勅撰入集は新続古今集のみ(七首)。御集には三類の『砂玉集(沙玉集)』が伝存する。日記『看聞日記』、史書『椿葉記』などの著がある。

後崇光院の御集『砂玉和歌集(沙玉和歌集)』の翻刻は群書類従第14輯・私家集大成5・新編国歌大観8に収められています(私家集大成は三類すべてを収録)。御集に漏れた歌の多くは『図書寮叢刊 後崇光院歌合詠草類』で読むことができます。漢文による日記『看聞日記』は『続群書類従補遺二 看聞御記』(全二冊)として続群書類従完成会より刊行されました。この日記を基にして後崇光院の生涯を追った『看聞日記―「王者」と「衆庶」のはざまにて―』(横井清著、そしえて刊)は、のち講談社学術文庫に『室町時代の一皇族の生涯』として収録されました。『椿葉記』は群書類従第3輯(帝王部)に翻刻されています。また村田正志著作集第四巻には『証註椿葉記』が収められています(思文閣出版)。漢文日記の文学的研究を中心とした位藤邦生『伏見宮貞成親王の文学』(清文堂)もあります。

  6首  3首  5首  2首  4首  5首 計25首

百首歌たてまつりし時、霞

まさかきの春のみどりの色なれや霞ぞにほふあまのかぐ山(新続古今9)

【通釈】榊葉の春の緑の色だろうか。霞がほのぼのと色づいている、天の香具山よ。

【補記】春霞に覆われた天の香久山。「まさかき」は神事に用いる常緑樹。永享百首。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」
さくとみし花の梢はほのかにて霞ぞにほふ夕暮の空

【主な派生歌】
真榊のみどりの色にかすむなり神路の山のあけぼのの空(後花園院)

春夕

思ひそめしあけぼのよりも桜花心うつろふ夕ばえの色(砂玉集)

【通釈】桜の花を眺めるのは、初めは曙と思っていたが、それよりも心惹かれる夕映えの有様よ。

【補記】「夕ばえ」は、あたりが薄闇に包まれる頃、ものの色や形が陰翳を深く帯び、明るい時よりも却ってくっきりと美しく見えることを言う(「夕日に映える」意ではない)。「うつろふ」は花の縁語。応永十七年(1410)七夕法楽歌合。なお同じ作者の六十番自歌合に「情ふかくみし明ぼのの花にまた心うつろふ夕ばえの色」があり、掲出歌の改作か。

【参考歌】京極為兼「玉葉集」
思ひそめき四つの時には花の春はるのうちにも明けぼのの空

春月

かすめるを月やあらぬとうらむれば我が身一つの涙なりけり(砂玉集)

【通釈】月が霞んでいるのを、月よおまえも昔と変わってしまったのかと恨めば、我が身一つが取り残された悲しみの涙で霞んでいたのであったよ。

【補記】応永十六年(1409)十月二十一日、菊第における庚申の夜の歌合での作。判者は堯尋。永享百首では「かすむ夜の月やあらぬとながむればわが身ひとつの涙なりけり」。

【本歌】在原業平「古今集」
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして

応永十九年二月、花見御会当座の歌に 見花

今よりや伏見の花になれてみん都の春も思ひわすれて(砂玉集)

【通釈】これからは伏見の里の桜に親しみ、毎年その花を見よう。懐かしい都の春の思い出も忘れることにして。

【補記】父の御所であった伏見殿に移り住んだ翌年の作。伏見殿は崇光院の死後、後小松天皇に召し上げられていたが、応永十六年(1409)になって栄仁親王に還付された。当時の伏見は、貴族の別荘や寺社が点在する、のどかな田園地帯であった。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
いざここにわが世はへなむ菅原や伏見の里のあれまくもをし

暮春

根にかへるなごりをみせて()のもとに花の香うすき春のくれがた(砂玉集)

【通釈】土の中へと帰って行く名残惜しさを見せるように、木の根元に香もうっすらと花が散り残っている春の日暮れ時よ。

【本歌】藤原実行「金葉集」
根にかへる花のすがたの恋しくはただこのもとをかたみとは見よ

【参考歌】崇徳院「千載集」
花は根に鳥はふるすにかへるなり春のとまりをしる人ぞなき
  後嵯峨院「新後撰集」
たちかふる名残やなほも残るらむ花の香うすき蝉のはごろも

応永廿二年、三月尽五十首の中に 暮春霞

かすめただおぼろ月夜(づくよ)の別れだにおし明がたの春の名残に(砂玉集)

【通釈】空よただもう霞め。せめて朧月との別れを惜しもう――天の戸を押し開ける明け方、去って行く春のなごりとして。

【補記】晩春弥生二十日過ぎの有明月に、春との別れを惜しむ。第三句から四句にかけて「別れだに惜し」「押し明けがたに」と「おし」が掛詞になる(当時の一般的な仮名遣は歴史的仮名遣と異なり「惜し」を「おし」と書いた)。砂玉集には「同年(応永廿五年)三月尽の会に 暮春天象」の題詞でよく似た歌「かすめただ月もいまはの有明よ弥生の空のわすれがたみに」がある。

【参考歌】よみ人しらず「新古今集」
あまのとをおしあけがたの月みればうき人しもぞ恋ひしかりける
  栄仁親王「菊葉集」
霞めただ弥生の末の有明よそをだに春の忘れがたみに

袖の香を花たちばなに残してもわが昔には思ひ()でもなし(永享百首)

【通釈】橘の花に染みつけた袖の香は残っても、辛い過去を過ごしてきた私には思い出もありはしない。

【補記】むなしく香が残るだけで、そこから触発されるべき懐かしい思い出はないと、己のこれまでの人生を嘆く。永享六年(1434)、新続古今集撰進のため召された百首歌より。作者は当時六十三歳、子の彦仁王は既に践祚し、予期せぬほど恵まれた晩年を迎えていたのだが。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする

百首歌奉りし時、聞郭公

榊とる卯月きぬらし子規(ほととぎす)そのかみ山にゆふかけてなく(新続古今246)

【通釈】賀茂祭のために榊の葉を取る四月になったらしい。ほととぎすはその名も昔を思わせる神山に幣(ぬさ)の木綿(ゆう)をかけるというわけではないが、夕方にかけて鳴くことよ。

【補記】「榊とる」は、賀茂社の葵祭のために榊の葉を採ること。「そのかみ山」は「そのかみ」(昔の意)、「神山」(上賀茂社の山)、の掛詞。「ゆふ」は「木綿」「夕」の掛詞。

【本歌】曾禰好忠「後拾遺集」
榊とる卯月になれば神山の楢のはがしはもとつ葉もなし

あし火たく影は消えゆく浦風にのこるひかりや蛍なるらん(砂玉集)

【通釈】蘆を焼く炎は浦風に消えてゆく――そのあとにも残ってほのめく光は、蛍なのだろう。

【補記】蘆の繁る入江を遠望。堀河百首題。

【本歌】「伊勢物語」八十七段、在原業平「新古今集」
はるる夜の星か川辺の蛍かも我がすむかたにあまのたく火か

【参考歌】宇都宮景綱「蓮瑜集」
浦つたふなにはのみつのはま風に消えぬあし火やほたるなるらん

秋の歌の中に

その色とわかぬあはれもふか草や竹のは山の秋の夕ぐれ(新続古今425)

【通釈】どこが特に趣深いとも判別できないのだけれども、何とも哀れ深い深草の里であるよ、竹の葉茂る端山の秋の夕暮――。

【補記】「あはれもふか草」に「あはれも深き」「深草」を掛ける。深草は平安京南郊、「草深い里」の意も掛かるのが普通。「竹のは山」には「竹の葉」「端山」を言い掛けている。永享三年(1431)九月の歌合。情趣にさしたる深みはないが、愛誦に堪える作であろう。

【参考歌】藤原家隆「続古今集」
深草や竹のは山の夕霧に人こそ見えねうづらなくなり
  寂蓮「新古今集」
さびしさはその色としもなかりけり槙立つ山の秋の夕ぐれ
  京極為兼「玉葉集」
ふたとせの秋のあはれはふか草やさが野の露も又きえぬなり

応永十六年八月十五夜、菊第にて歌合侍りしに 判者冷泉中納言為尹卿 秋旅

秋風やさてもとはまし草の原露の旅寝におもひきえなば(砂玉集)

【通釈】秋風よ、ともかく私のいる草の原を訪ねてほしい。露にしとどに濡れる旅の宿りに消え入るような思いでいるのだから。

【補記】「草の原」と言えば源氏物語朧月夜を想起するのが当時の常識。露に涙を暗示し、旅の憂いを吹き払ってほしいと秋風に言い遣っている。

【本歌】朧月夜「源氏物語」
うき身世にやがて消えなば尋ねても草の原をば問はじとや思ふ

暁鹿

明がたはなれもや月をおもひいるみ山に鹿の声かへるなり(砂玉集)

【通釈】明け方は、おまえも月を深く思い入れて眺めるのか。奥山に帰ってゆく鹿の声が聞えるよ。

【参考歌】藤原俊成「玉葉集」
川千鳥なれもやものはうれはしきただすの森をゆきかへりなく

心なき草木の色もしをるらしなべて浮世を秋の嵐に(砂玉集)

【通釈】心を持たない草木の色も萎れ、しょんぼりした様子をしているようだ。おしなべて憂き世を厭うのか、秋の嵐に吹きさらされて。

【補記】「浮世を秋」に「憂き世を厭き」が掛かり、「辛い世間が嫌になって」程の意が響く。また「なべて」は「靡かせて」の意があり、嵐の縁語。在京時代の六十番自歌合に見える歌で、判者の栄仁親王は「伏見院御製に草木も心いたむらし、面影うかびて優にきこえ侍れば」云々と賞讃している。京極派の影響が窺えて興味深い。

【参考歌】伏見院「玉葉集」
我もかなし草木も心いたむらし秋風ふれて露くだるころ

応永廿三年九月尽に 暮秋雨

なが月やすゑ葉の荻もうちしをれあはれをくだく雨のおとかな(砂玉集)

【通釈】長月も末となり、荻の葉末も萎れて項垂れ、哀しみを砕くように降る雨の音であるよ。

【補記】「あはれをくだく」は前例を見ない表現。雨が荻の葉を激しく打つ様をイメージさせると共に、その様な晩秋の風情に「あはれ」を催した心を粉々にして尽きさせるといった意を受け取ることができる。

初冬

冬はまだあさけの空もみし秋の面影ながらうち時雨(しぐ)れける(砂玉集)

【通釈】冬はまだ浅い朝明けの空――先日までの秋の面影そのままで、さっと時雨が降ったことよ。

【補記】「冬はまだあさけの空」に「冬はまだ浅き」「朝明の空」を言い掛けている。当時(室町初期)はこの種の掛詞の技法が再流行を見せていた。堀河百首題。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草員外」
さくら花をしみし暮もまだちかき面かげながら時雨する冬

日影さす()の下しろき朝霜の消えゆくかたは落葉にぞなる(砂玉集)

【通釈】木の根もとを白く覆っていた朝霜に日が射して、次第に消えてゆく――その跡は落葉になるのだ。

【補記】「消えゆくかた」は「消えてゆく跡に現れる形」ほどの意であろう。京極派の影響が顕著な細かい観察眼が注目されるが、描写に神経を取られ、説明的になっている分、歌の格調が劣ってしまうという京極派の弱点も受け継いでしまっている。京時代の六十番自歌合。

【参考歌】源親子「玉葉集」
ふりうづむ雪のすがたと見えつるを消えゆくかたぞ竹になりゆく

秋恋

身を秋のちぎりかれゆく道芝をわけこし露ぞ袖にのこれる(砂玉集)

【通釈】あの人が我が身を厭きた秋――契りを交わすことも絶え、露に濡れつつ通(かよ)った道の雑草も今や枯れ果てて――その露ならぬ涙ばかりが私の袖に残っているよ。

【補記】「女に厭きられた男」の立場で詠む。「秋」「厭き」、「離れ」「枯れ」の掛詞は常套だが、語の構成の妙は新古今の秀詠にもまさろう。

【参考歌】飛鳥井雅経「新古今集」
身を秋のわがよやいたくふけぬらん月をのみやはまつとなけれど
  俊成卿女「新古今集」
かよひこし宿の道柴かれがれに跡なき霜のむすぼほれつつ

いづかたに月はかたみをとどむらん涙をわくる袖の別れに(砂玉集)

【通釈】あの人と私と、どちらの方に月は形見を残すのだろうか。抱き合っていた互いの袖を引き離し、涙を分かつ後朝の別れに。

【語釈】◇かたみ 思い出の種となるもの。逢瀬の忘れ形見。袖を濡らす涙に映る月の光をこのように言っている。◇袖の別れ 新古今以後、後朝(きぬぎぬ)の別れをこう呼ぶことが多い。抱き合っていた袖を引き離して別れることであり、また袖を涙で濡らす別れでもある。

【補記】六十番自歌合の五十一番右勝。同じ砂玉集によく似た「いづかたにしをれまさると有明に袖のわかれの露をとはばや」が見える。掲出歌と甲乙つけがたい。

【参考歌】藤原信実「続古今集」
きぬぎぬの袂にわけし月かげはたが涙にかやどりはつらん
  土御門院「続後撰集」
あかつきの涙ばかりをかたみにて別るる袖にしたふ月かげ

絶恋

面影はみし夜のままのうつつにてちぎりはたゆる夢のうき橋(砂玉集)

【通釈】恋人の面影はあの夜逢った時のまま鮮やかに残っているけれど、あれっきり逢瀬は絶えてしまって、まるで夢の浮橋のように儚い契りであった。

【語釈】◇夢のうき橋 浮橋のようにはかない、夢の中の通い路。浮橋は、水面に筏や舟を並べ、その間に板を渡して橋の代りとしたもの。

【参考歌】藤原忠良「千五百番歌合」
恋ひわたるとだえばかりはうつつにてみるもはかなき夢のうき橋

寄匣恋

かたみとて見るもなみだの玉匣(たまくしげ)あくるわかれの有明の月(砂玉集)

【通釈】それが二人の逢瀬を思い出す縁(よすが)だと思えば、見るだけで涙の玉がこぼれ落ちる。明けての別れを告げ知らせる有明の月が――。

【補記】「玉匣」は「あくる」の枕詞。また「(涙の)玉」と掛詞になっている。一見「玉匣」が「かたみ」であるかのように言いなしているが、実は「有明の月」が「かたみ」なのである。永享五年九月重陽百首。

【参考歌】真昭法師「続古今集」
かたみとや袖のわかれにとどめけん涙にうかぶありあけの月

百首歌たてまつりし時

やどれ月露わけきつる旅衣たちし都のわすれがたみに(新続古今924)

【通釈】宿れよ月。露を分けつつやって来た私の旅衣の袖に。後にした都を思い出す縁(よすが)としようから。

【補記】羈旅歌。袖の涙に映した月によって都を偲ぼうとの心。「き(着)つる」「た(裁)ちし」は衣の縁語、「やどれ」は旅の縁語。

【参考歌】藤原定家「拾遺愚草」
やどれ月衣手おもし旅枕たつや後瀬の山のしづくに

古郷橘

橘にむかしの風は残れども身はふる里にとふ人もなし(砂玉集)

【通釈】橘の花の香に昔の風を偲ぶことはできるけれども、老いさらばえた我が身を置く荒れた里には訪ねてくれる人とていない。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
五月まつ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
ひぐらしのなく山里のゆふぐれは風よりほかにとふ人もなし

山月

伏見山昔のあとにすむならばみしよにかへれ宿の月影(砂玉集)

【通釈】伏見山のこの由緒ある場所に澄んだ光を投げようというのなら、いっそかつての時代に戻ってくれ、宿に射す月の光よ。

【語釈】◇昔のあと 古い由緒を残す所。具体的には後白河院から受け継がれて来た伏見殿を指す。◇すむ 「住む」「澄む」の掛詞。◇みしよ 自分が経験した時代。懐かしい過去。「月が見て来た代」とすれば、白河院(伏見殿の前身である橘俊陰の伏見山荘を譲り受けた)や後白河院の時代と解することもできよう。なお「よ」は「夜」の意も兼ねる。

百首歌奉りしとき

伏見山むかしの跡は名のみしてあれまくをしき代々の古郷(新続古今2007)

【通釈】伏見山に昔壮大な離宮が建てられた跡は、今はもう名ばかりで、荒れたことが惜しい、この代々を経た故郷よ。

【補記】後白河院が建てた豪奢な伏見殿を偲ぶ。後崇光院は同じ伏見の庄を伝領したのだが、殿舎の規模はかつてとは比較にならない。永享百首、題は「山家」。題詠に私的な感懐を託すのは珍しいことではない。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
いざここにわが世はへなむ菅原や伏見の里のあれまくもをし
 「いはでしのぶ物語」
うぐひすも春やむかしをわするなよあれまくをしき花のふるさと

懐旧

はなもみぢ見し春秋の夢ならでうきこと忍ぶ思ひ()でぞなき(砂玉集)

【通釈】春に花を見、秋に紅葉を見た、夢のような思い出――それ以外に、辛いことを堪え忍ぶ慰めは無いのだ。

【補記】堀河院百首題。

【参考歌】覚審法師「千載集」
すぎきにし四そぢの春の夢のよはうきよりほかの思ひ出でぞなき


更新日:平成15年10月07日
最終更新日:平成27年12月10日