源具親 みなもとのともちか 生没年未詳 通称:小野宮少将

村上源氏。小野宮大納言師頼の孫。右京権大夫師光の子(二男か)。母は巨勢宗成女、後白河院安藝。宮内卿の同母兄。勅撰歌人泰光も兄弟。北条重時の娘を娶り、輔道をもうける。
能登守・左兵衛佐などを経て、従四位下左近少将に至る。出家後は如舜を称す。
後鳥羽院歌壇で活躍し、「正治後度百首」「千五百番歌合」、承元元年(1207)「最勝四天王院障子和歌」などに詠進。建仁元年(1201)、和歌所寄人となる。承久の乱後はほとんど歌を残していないが、建長五年(1253)の藤原為家主催「二十八品並九品詩歌」に如舜の名で出詠している。新古今集初出。新三十六歌仙。鴨長明『無名抄』に逸話が見え、妹の宮内卿と対照的に歌に熱心でなかったと伝える。

百首歌たてまつりし時

難波潟かすまぬ波も霞みけりうつるもくもる朧月夜に(新古57)

【通釈】難波潟では、霞むはずもない波が霞んでいるよ。今夜は朧月夜なものだから、海面に映る月影もぼんやり曇っているので。

【語釈】◇難波潟 潟は遠浅の海。いまの大阪市中心部あたりは、水深の浅い海や、葦におおわれた低湿地が広がっていて、難波潟とか難波江とか呼ばれた。◇うつるもくもる 映るも曇る。波に映る月影も、朧月夜なので曇る。

【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院後度百首。

百首歌めしし時、春歌

時しもあれたのむの雁の別れさへ花ちる頃のみ吉野の里(新古121)

【通釈】いつまで田の面に留まってくれるかと頼みとしていた雁も、とうとう飛び立ち、別れの時となったが、よりによって、花が散る頃の吉野の里でその時を迎えようとは。

【語釈】◇たのむの雁 田の面の雁。「頼む」を掛ける。◇み吉野の里 下記本歌では武蔵国入間郡の地名であるが、ここでは桜の名所である大和国の吉野にすり替えている。

【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院後度百首。

【本歌】「伊勢物語」第十段
みよし野のたのむの雁もひたぶるに君がかたにぞよると鳴くなる

千五百番歌合に

しきたへの枕のうへにすぎぬなり露をたづぬる秋の初風(新古295)

【通釈】枕の上を吹き過ぎていったよ。露を散らそうとやって来たのだろうが、枕の下に溜まった涙には気づかなかったよ、秋の初風は。

【語釈】◇しきたへの 枕の枕詞◇枕のうへに 下記本歌により、枕の下には涙の海があることを暗示。それには気づかずに吹き過ぎていった、ということ。◇露をたづぬる 秋風は露を吹き散らすのが習わしであるので、こう言う。

【本歌】紀友則「古今集」
しきたへの枕の下に海はあれど人をみるめは生ひずぞありける

 

木枯しやいかに待ちみむ三輪の山つれなき杉の雪折れの声(千五百番歌合)

【通釈】これから吹こうと待っている木枯しは、どんなふうに三輪山の杉と出逢うことになるのだろう。すでに積もった雪の重みで、無情にも杉の枝折れの音が――。

【語釈】◇いかに待ちみむ 待ったあげく、どのように逢うことになるか。

【補記】下記本歌は、いずれも人が人を待つ歌であるのを、木枯しが杉を「待ち見る」とした。木枯しを男、杉を女、雪をもう一人の男と見れば、三角関係が浮かび上がってくる仕掛け。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
わが庵は三輪の山もと恋しくはとぶらひきませ杉たてる門
  伊勢「古今集」
三輪の山いかに待ちみむ年ふともたづぬる人もあらじと思へば

題しらず

今はとて思ひたゆべき槙の戸をささぬや待ちしならひなるらむ(続後撰956)

【通釈】今はもう思い諦めるべきなのだ。槙の戸も鎖してしまうべきなのに、そうしないで寝るのは、毎晩あの人の訪れを待ち暮らした習慣のなごりなのだろうか。

【語釈】◇槙の戸 杉檜などの板で作った粗末な戸。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日