藤原菅根 ふじわらのすがね 斉衡二頃〜延喜八(855-908)

藤原南家。参議巨勢麻呂の曾孫。従四位上右兵衛督良尚の子。母は従四位下菅野高年の娘。子に大納言元方がいる。
元慶八年(884)、文章生となり、因幡権大掾・少内記などを歴任する。寛平二年(890)、対策に及第し、同五年、敦仁親王(のちの醍醐天皇)立太子に際して、菅原道真の推薦により春宮侍読となる。勘解由次官・式部少輔を経て、昌泰二年(899)、文章博士となり、翌年、蔵人頭に左近少将を兼ねる。昌泰四年(901)正月、菅原道真の左遷を諫止しようとした宇多上皇を阻止し、この責を負って大宰大弐(少弐とも)に左遷となるが、直後に許されて蔵人頭に復職し、式部少輔に再任された。その後春宮亮・式部大輔などを経て、延喜五年(905)、藤原時平のもとで『延喜式』編纂を命ぜられる。同八年正月、参議に任ぜられるが、同年十月七日、五十三歳で卒去した。贈従三位。その死は道真の祟りであったという。
寛平四年(892)頃の寛平御時后宮歌合に出詠。勅撰入集は古今集の一首のみ。

 

寛平御時きさいの宮の歌合の歌

秋風に声をほにあげて来る舟は(あま)()渡る雁にぞありける(古今212)

【通釈】秋風を受け、帆を高くあげる舟のように、声を高くあげて来るものは、天の川の渡りをとおる雁なのであった。

【語釈】◇声をほにあげて 「ほ」は「秀(ほ)」「帆」の掛詞。秀(ほ)は穂と同根の語で、「声を秀(ほ)にあげて」とは「声を高く張り上げて」程の意。「帆」は舟の縁語。◇天の門(と) 天の川の川門(かわと)。「門(と)」は狭い通り路のことで、ここでは天の川の川幅が狭くなったところ、すなわち舟の渡しとなるべき所である。用例「織女(たなばた)の天の門わたる今宵さへ遠方人のつれなかるらむ」(後撰集、よみ人しらず)。諸注、「天の門」を天の川と関わらせず、天を海になぞらえた表現と見るが、それでは下句が生きず、歌の面白さは半減してしまう。◇雁(かり) 鴨より大きく白鳥より小さな水鳥で、真雁・鴻(ヒシクイ)など多くの種類がある。日本へは秋に飛来し、春になるとシベリア・カムチャッカ半島方面へ去って行く。

【補記】秋風の吹く中に声を響かせるものを、「ほ」に掛けて舟と言いなしておいて、下句でそれが天の川を渡る雁であったと明かした。雁を舟になぞらえた先例は白氏文集巻五十四に「秋雁櫓声来」(→資料編)とあり、これは雁の声が艪を漕ぐ音に似ていることに基づく。掲出歌はおそらくこの句をヒントに、掛詞を用いて雁の声を高く爽やかに響かせ、同時に天の川の星明りをよぎる雁の影を鮮やかに描いてみせたものである(初雁が訪れる頃の宵には、天の川が空高く横たわるように眺められる)。漢学者らしく知的に構想した歌であるが、歌の内容にふさわしい、張りきった、高らかな響きを持っている。寛平四年(892)頃、宇多天皇の母后班子女王の御所で催された歌合に出詠された歌。

【他出】新撰万葉集、古今和歌六帖(作者「みつね」)、俊頼髄脳、奥義抄、和歌初学抄、和歌色葉、八雲御抄、別本和漢兼作集、桐火桶、歌林良材

【主な派生歌】
葦鶴の声をほにあげて我が恋はあまの川原に今ぞふなづる(賀茂保憲女)
春の雁のこゑをほにあげてゆく舟も天の門わたる海の橋立(藤原家隆)
海人小舟こぎゆく波のをちかたに声をほにあげて雁もなくなり(後二条院)
友さそふ室の泊の朝あらしに声をほにあげて出づる船人(*大江茂重[新拾遺])
くる雁も声をほにあげて渡るなり月の御舟のおなじ雲ゐに(中院通村)
初雁も声をほにあげて慕ひきぬ天の戸渡る月のみ舟を(後水尾院)
追風に声を帆にあげてうたふ舟とほよる聞けば秋の雁がね(下河辺長流)
行きかへる潮路は八重の霧の中に声を帆にあげてうたふ舟人(武者小路実陰)
海原や沖行く舟のをちこちに声をほにあげて雁渡るみゆ(加藤千蔭)


公開日:平成21年07月28日
最終更新日:平成22年10月15日