藤原北家世尊寺流。義孝・行成の裔。従二位左京権大夫経朝の息子。正四位下左馬頭。伏見院近臣。玉葉集を清書したという。
前期京極派の歌人。正応三年(1290)九月十三夜内裏歌会、同五年厳島社頭和歌、永仁三年(1295)八月十五夜内裏歌会、永仁五年(1297)八月十五夜歌合などに出詠。玉葉集以下、勅撰入集七首。
題しらず
桜色に山分衣うつろひぬかつちりかかる花の下道(続千載1681)
【通釈】山分衣(やまわけごろも)は桜色に染まってしまった。散っては降りかかる花の下の道を通るうちに。
【語釈】◇山分衣 僧や山人が山に分け入って行く際に着た衣。古今集に初出する語。
【補記】桜の花びらが幾つも衣に付いたのを「桜色にうつろふ」と言いなした。「うつろふ」はこの場合色が変わるということ。
【参考歌】藤原為家「為家集」
霞たつ山わけ衣さくら色にみだれてそむる花の下かぜ
夏歌の中に
暮れかかるとほちの空の夕立に山の端みせててらす稲妻(玉葉421)
【通釈】暮れようとする空を眺めやれば、遠方で夕立が降っているらしい――山の稜線を一瞬だけ見せる、稲妻の閃光よ。
【語釈】◇とほち 大和国の地名「十市(とをち)」が、平安時代以降「とほち」と混同され、鎌倉時代には「遠方」の意で用いていると見られる例が多くなる。参考歌に挙げた源俊頼の歌では地名のつもりで用いていると思われる。
【補記】一瞬の自然の変化を迫真的に捉え、京極派の歌風の特色を具えている。
【参考歌】源俊頼「詞花集」
とをちには夕立すらし久かたの天の香具山雲がくれゆく
宇都宮景綱「蓮愉集」
鳴神のとほちの雲の絶え間よりときどき見ゆる宵の稲妻
題しらず
入る月のなごりの影は峰にみえて松風くらき秋の山もと(玉葉723)
【通釈】秋の晩、沈んだ月の余光はまだ峰に残っていてほのかに明るく、いっぽう山の麓では松風が寂しく吹き、暁前の暗闇に包まれている。
【補記】月と太陽が入れ替わる直前の時にあって、微妙な明暗の対照を表現している。第三句字余りも京極派によく見られる一特徴。
【参考歌】伏見院「御集」
月はまだにほひもそめぬ軒の空に松風くらき夜はの山かげ
題しらず
たちのぼる月の高嶺の夕嵐とまらぬ雲をなほはらふなり(玉葉2156)
【通釈】明るく輝きながら月が昇る高嶺――そこを吹く夕嵐は、絶えず流れてゆく雲をさらに追い払っているようだ。
【補記】永仁三年(1293)八月十五夜、伏見天皇の内裏において催された歌会への出詠歌。参考歌に挙げた俊頼の歌の影響が明らかであるが、掲出歌は自然の見方・捉え方がより微細になり、かつ動感が豊かであって、完全に京極派の歌となっている。
【参考歌】源俊頼「千載集」
こがらしの雲吹きはらふ高嶺よりさえても月の澄みのぼるかな
更新日:平成14年12月26日
最終更新日:平成20年05月21日