北条政村 ほうじょうまさむら 元久二〜文永十(1205-1273)

執権義時の息子。母は伊賀氏。泰時・重時の弟。
建暦三年(1213)、元服。相模四郎政村を名乗る。元仁元年(1224)、義時が逝去すると、兄光宗らの陰謀(伊賀氏の変)に巻き込まれるが、泰時の配慮によって厳罰を逃れた。常陸大掾・式部少丞・右馬助・右馬権頭などを歴任し、嘉禎三年(1237)、従五位上に叙せられる。延応元年(1239)、評定衆に列し、幕府の中枢に参加。翌年、評定衆筆頭。康元元年(1256)、重時の落飾にともない連署となる。文永元年(1264)、執権長時が死去すると、時宗への中継として執権に就く。同二年、左京権大夫。同五年、執権職を時宗に譲った後、再び連署に就任し、時宗を支え続けた。文永十年(1273)、出家し、覚崇を号す。同年、六十九歳で逝去。
宗尊親王家百首に出詠し、自邸で探題当座千首会を開くなど、和歌には大変熱心だった。新勅撰集初出。勅撰入集は計四十首。『新時代不同歌合』歌仙。

北条政村邸跡
北条政村邸跡 鎌倉市常盤

あづまにまかりける時、浜名の橋のやどりにて月くまなかりけるを見て

たかし山夕越え暮れて麓なる浜名の橋を月に見るかな(続古今878)

【通釈】高師山を夕方越えるうちに日が暮れてしまって、麓の浜名の橋を月の光のうちに見ることよ。

【語釈】◇たかし山 不詳。王朝和歌では「たかし山」と書くのが通例であるが、「高師山」と書いた例もある。所在は三河国渥美郡とも遠江国浜名郡とも言う。「高し」の意が響く。◇浜名の橋 遠江国の歌枕。浜名湖と遠州灘をつなぐ浜名川に架かっていた長大な橋。

【補記】東国へ向かう時、浜名の橋に宿って、満月を見て詠んだという歌。但し作中では山上から浜名の橋を眺め下ろすという設定である。山中で日暮を迎えることは、旅人にとって大きな不安をもたらすはずであるが、その不安も晴らすような美しい夜景に出逢った感動を詠んでいる。

【参考歌】藤原為家「貞応三年百首」「夫木抄」
たかし山夕越えはててやすらへば麓の浜に藻塩やく見ゆ

羈中嵐

今日いくか野山のあらし身にしめて故郷とほく別れ来ぬらむ(玉葉1208)

【通釈】今日で何日、野山の嵐を身に染みとおるように感じながら、故郷を別れて遠く来たことだろう。

【補記】旅の歌。嵐に何日も吹きさらされたと詠むことで、「故郷とほく」の感慨が強い説得力を以て迫ってくる。

恋歌中に

涙こそうつつの憂さにあまりぬれ夢にも今はねのみなかれて(続古今1324)

【通釈】現実では恋の辛さのあまり涙が溢れてしまうけれど、夢でもこの頃は声を上げて泣いてばかりで。

【語釈】◇うつつの憂さ 現実の恋の辛さ。

【補記】辛い恋をしている者にとって夢はせめてもの慰めであるはずが、夢を見ている時も声を上げて泣くほどにこの恋の「憂さ」は苛烈であるという。

題しらず

来し方ぞ月日にそへて偲ばるる又めぐりあふ昔ならねば(続拾遺1253)

【通釈】過ぎ去った日々が、歳月の経つにつれて恋しく偲ばれる。再び巡り逢うことのできる昔ではないから。

【補記】時を経るにつれて増さる懐旧の情。下句はその因って来たる核心を突いている。


更新日:平成14年12月04日
最終更新日:平成21年01月24日