広義門院 こうぎもんいん 正応五〜延文二(1292-1357) 本名:西園寺寧子

父は左大臣西園寺公衡、母は左馬助藤原光保女。実衡の異母妹。光厳院光明院の母。
徳治元年(1306)四月、後伏見院の女御となる。延慶二年(1309)正月、准三后・院号宣下。正和二年(1313)に量仁親王(光厳院)を、元亨元年(1321)に豊仁親王(光明院)を生む。延元元年(1336)、後伏見院が崩ずると落飾し、暦応二年(1339)伏見離宮の傍に大光明寺を建立して菩提を弔った。観応三年(1352)、京都を占領した南朝軍が光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王(花園院の皇子)を拉致し幽閉した際には、北朝復活をはかる足利義詮により治天の君に擁立され、孫の後光厳天皇を後見した。延文二年(1357)閏七月二十二日、崩御。六十六歳。
玉葉集初出。勅撰入集は計八首。

池水鳥といふことを

朝あけのこほる波まにたちゐする羽音もさむき池の村鳥(玉葉942)

【通釈】早朝、半ば凍りついた池の波間から飛び立ったり、また降り立ったりしている鳥の群れ――その羽音も寒々としていることよ。

【参考歌】藤原公衡「続後撰集」
霜こほる門田のおもにたつしぎの羽音もさむき朝ぼらけかな

恋歌とて

ちぎりありて逢ひ見むこともしらぬ世にはかなく人を思ひそめぬる(玉葉1257)

【通釈】因縁があって結びつくことができるかどうか――分かりはしない仲なのに、愚かにも人を思い始めてしまったよ。

【補記】恋の成就は前世からの因縁に左右されると考えるのが普通であった。「世」は現世であり男女の仲でもある。


最終更新日:平成15年01月19日