藤原冬嗣 ふじわらのふゆつぐ 宝亀六〜天長三(775-826) 号:閑院左大臣

真楯の孫。内麻呂の子(『大鏡』には三男とある)。母は安宿奈杼麻呂の娘、百済宿禰永継。文徳天皇の母后順子・長良・良房・良相らの父。
大同元年(806)、従五位下。同年、賀美能親王(嵯峨天皇)の春宮大進となり、のち春宮亮に昇進。大同四年(809)、嵯峨天皇即位の日に正五位下、翌日従四位下に越階昇叙。天皇の篤い信任のもと、蔵人頭・式部大輔を歴任ののち、弘仁二年(811)、参議に就任。同五年には自邸閑院(平安左京三条二坊)に行幸があり、従三位を授けられる。中納言・大納言を経て、弘仁十二年(821)右大臣。同十四年には正二位に昇る。天長三年(826)左大臣となったが、同年五十二歳で薨去。嘉祥三年(850)には太政大臣を贈られた。
政界を主導したばかりでなく、『弘仁格式』『日本後紀』などの編纂に従事し、また藤原氏のために勧学院を建立するなど多方面で活躍した。文武兼ね備え、漢詩も残している。和歌の勅撰入集は後撰集のみの四首。

春日にまうでける道に、佐保河のほとりに、初瀬より帰る女車のあひて侍りけるが、簾のあきたるより、はつかに見入れければ、あひ知りて侍りける女の、心ざし深く思ひ交しながら、憚ること侍りて、あひ離れて六七年ばかりになり侍りける女に侍りければ、かの車に言ひ入れ侍りける

ふるさとの佐保の河水けふもなほかくて逢ふ瀬はうれしかりけり(後撰1181)

【通釈】古びた里の佐保川の水は、今も昔と変わらず清く流れ――それも嬉しいが、こうして貴女に逢う機会を持てたのも、まことに嬉しいことでした。

佐保川
佐保川 奈良市川上町

【補記】藤原氏の氏社である春日明神に参詣する途中、佐保川のほとりで女車に遭遇した。簾の隙間から覗くと、深く思いを交わしながら事情があって六、七年も離れていた女である。そこで歌を書いて車に届けさせた。川の縁語となる「逢ふ瀬」を巧みに用いて、歳月を隔てた再会の喜びを伝えたのである。のどかな奈良旧京の佐保の里という背景が趣を添えている。

【他出】五代集歌枕、歌枕名寄

【主な派生歌】
故郷のさほの川水いかならん柞の色は風も残らず(順徳院)
故郷のさほの河水ながれてのよにもかくこそ月はすみけれ(*鵜殿余野子)


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月25日