久米広縄 くめのひろなわ(-ひろただ/ひろつな) 生没年未詳 略伝

久米氏はもと直(あたい)姓、来目部の伴造氏族。「広縄」はヒロタダ、ヒロノリなどと訓む説もある。
天平十七年(745)、左馬少允従七位上の地位にあった(大日本古文書)。同十九年五月から二十年三月までの間に大伴池主の後任として越中掾に着任し、以後、大伴家持が国守に在任した期間を通じて掾の職にあった。越中ではたびたび家持の遊覧旅行に同行し、また宴を共にして歌を詠んだ。天平勝宝三年(751)二月、国守館で正税帳使久米広縄の入京を送別する宴が開かれた。万葉集に九首。

十二日、布勢の水海に遊覧して、多古(たこ)(うら)に船(とど)め、藤の花を望み見て、(おのもおのも)(おもひ)を述べて作る歌

いささかに思ひて()しを多古の浦に咲ける藤見て一夜経ぬべし(万19-4201)

【通釈】ほんのちょっとのつもりで来たのに、多古の浦に咲いた藤を見て、一晩を過ごしてしまいそうだ。

【語釈】◇布勢(ふせ)の水海 富山県氷見市にあった海跡湖。◇多古(たこ)の浦 富山県氷見市下田子あたり。かつては布勢の水海の入江があった。「多古」は多胡とも田子とも書いた。古来藤の名所。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日