後土御門天皇 ごつちみかどてんのう 嘉吉二〜明応九(1442-1500) 諱:成仁(ふさひと)

後花園天皇の第一皇子。母は嘉楽門院藤原信子。庭田朝子(贈皇太后)との間に勝仁親王(後柏原天皇)・尊敦親王を、勧修寺房子との間に仁尊法親王ほかを儲けた。
嘉吉二年(1442)五月二十五日、生誕。寛正五年(1464)七月十九日、後花園天皇の譲位を受けて践祚(即位は翌年の十二月二十七日)。以後三十七年間の長きにわたり在位した。応仁元年(1467)、応仁の乱が勃発すると、後花園院と共に足利義政の室町邸に逃れ、以後十余年、同邸に身を寄せる。義政も後土御門天皇も和歌を極めて好んだので、戦乱の世にあっても同邸では歌会が頻繁に催された。乱終結後、衰頽した朝儀の復活に努めたが、朝廷の財源は枯渇し、思うに任せなかった。明応九年(1500)九月二十八日、崩御。五十九歳。死後、幕府は葬儀の費用を調達できず、遺骸は四十九日間黒戸の御所に置かれていたという。御陵は京都市伏見区深草坊町の深草北陵。御集『紅塵灰集』のほか数種の御詠草が伝わる。

「紅塵灰集」 私家集大成6
「後土御門院御集」 私家集大成6
「後土御門院御詠草」 私家集大成6

  4首  3首  3首  2首  1首 計13首

早春

朝まだき春のものとて天の原ふりさけみれば霞みそめつつ(紅塵灰集)

【通釈】夜の明けきらぬ頃、天空を仰ぎ見れば、春という季節ならではのものとして、早くも霞が立ち始めていて…。

【補記】「春のもの」は業平の本歌では春雨のことだが、ここでは空に立ち込める春霞を言う。文明年間の作。

【本歌】在原業平「古今集」
おきもせずねもせで夜をあかしては春の物とてながめくらしつ
【参考歌】安倍仲麿「古今集」「百人一首」
あまの原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも

花初開

待ちわぶる人に咲きぬと告げんまも立ちさりがたき花の明けぼの(紅塵灰集)

【通釈】待ち侘びている人に「咲いたよ」と告げに帰る、その間も立ち去り難い、桜の花の曙よ。

【補記】下記兼好法師の歌の模倣が顕著であるが、「見ぬ人」を「待ちわぶる人」に、結句を体言止めにするなど、情趣と余韻を深めることに成功した。文明八年(1476)三月三日の日次百首。足利義政に点を請うている。

【先蹤歌】兼好「兼好法師集」
見ぬ人にさきぬとつげむ程だにもたちさりがたき花のかげかな

雨中花

咲きもそひ散りもはじめて花桜うきうれしさのまじる雨かな(紅塵灰集)

【通釈】桜の花は、さらに咲き増し、散り始めもして、悲しさと嬉しさが入り混じる雨であるよ。

【補記】「うきうれしさ」は文字通り訳せば「悲しい嬉しさ」。矛盾した形容が面白いが、あるいは「うさうれしさ(憂さ嬉しさ)」の誤写かとも疑われる。文明八年(1476)三月の歌会。花盛りにあたり、当座出題の作。

春夕花

夕まぐれ花もなごりを思へばや面影おくるかへるさの道(紅塵灰集)

【通釈】ほの暗い夕暮れ時、桜の花も名残惜しいと思ってか、面影がどこまでもついて来て、私を送ってくれる帰り道であるよ。

【補記】制作年などは未詳。

【参考歌】二条為世「臨永集」
旅ごろも袖のわかれに立ちそひて面影おくる有明の月
  二条為世「文保百首」
くるるまで見つる名残に山桜かへるさおくる花の面かげ

内侍所にたてまつらせ給ひし一日百首のうちに

時鳥(ほととぎす)声きくまでと山道にまよへる我ぞいまだ旅なる(御詠草)

【通釈】時鳥の声を聞くまではと、山道に迷っている私こそ、まだ旅の途上にあるのだ。

【補記】放浪の鳥ホトトギスに対し、その声を聞こうと山道を彷徨う自分こそ旅の中にある、とした。制作年などは未詳。私家集大成所収の大阪市立大学図書館森文庫蔵『後土御門院御詠草』より。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
今朝きなきいまだ旅なる郭公花たちばなに宿はからなむ
  源公忠「拾遺集」
ゆきやらで山路くらしつほととぎす今ひと声の聞かまほしさに

夕立

なる神の音は高雄の山ながらあたごの峰にかかる夕立(紅塵灰集)

【通釈】雷鳴の音は高く高雄の山に聞こえながら、夕立の雨は愛宕の峰にまでかかっている。

【語釈】◇高雄 京都市右京区の山。山腹には神護寺がある。「音は高し」を言い掛ける。◇あたご 京都市右京区の山。高雄山の西。

【補記】二つの山の名を出して、夕立の景を大きく描いた。文明四年の日次百首。雅康・義政二人の点を得た。

【本歌】八条大君「拾遺集」
なき名のみたかをの山といひたつる君はあたごの峯にやあるらん
【参考歌】小倉公雄「亀山殿七百首」
なる神の音はたかをの山風に雨よりも猶雲ぞさきだつ

夕立

夕立のふりくる音のあらち山矢田野をかけて風ぞはげしき(御詠草)

【通釈】夕立が降って来る音が荒々しい愛発山――麓の矢田野にかけて風が激しく吹いている。

【語釈】◇あらち山 愛発山。有乳山とも。福井県敦賀市の山。滋賀県との境に近い。「あら」に「荒き」意を掛けている。◇矢田野 万葉集(下記参考歌参照)に見えるのは大和国の矢田野(奈良県大和郡山市矢田)であるが、愛発山と共に詠まれたため、後世越前の歌枕と誤解された。

【補記】越前国を旅する人の視線で詠む。文明八年作。私家集大成所収の大阪市立大学図書館森文庫蔵『後土御門院御詠草』より。

【参考歌】作者不詳「万葉集」
矢田の野の浅茅色づく有乳山峰の沫雪さむくふるらし

秋夕風

我が涙なにこぼるらん吹く風も袖のほかなる秋の夕暮(紅塵灰集)

【通釈】私の涙がどうしてこぼれるのだろう。風も私の袖は素通りしてゆく秋の夕暮であるのに。

【補記】鴨長明の新古今歌を暗示して、秋の夕暮の情緒ゆえでない、自分の心の悲しみゆえの涙であることを匂わせる。詞を借りない本歌取りである。文明八年三月三日の日次百首。義政の点を得た。

【本歌】鴨長明「新古今集」
秋風のいたりいたらぬ袖はあらじ只我からの露の夕ぐれ
【参考歌】順徳院「続後撰集」
草の葉におきそめしより白露の袖のほかなる夕暮ぞなき

嶺月

旅人はさやにも見しか雲はるる甲斐(かひ)()出づる秋の夜の月(紅塵灰集)

【通釈】旅人はさやかに見たか。雲が晴れる甲斐ヶ嶺から昇る秋の夜の月を。

【補記】「甲斐が嶺」は甲斐白根山(富士山の別称とする説もある)。文明四年の日次百首。雅康・義政二人の点を得た。古風だが丈高い、いわゆる至尊調。

【本歌】「古今集」東歌
かひがねをさやにも見しがけけれなくよこほりふせるさやの中山

袖上月

わすれずも袖とふかげか十年(ととせ)あまりよそに忍びし雲の上の月(御詠草)

【通釈】忘れもせずに我が袖を訪れてくれる光なのか。十余年の間、遠くから偲ぶことに耐えてきた、雲の上の月よ。

【語釈】◇よそに忍びし 離れて耐え忍んだ。「しのび」には「偲び」が掛かり、「思慕した」意を兼ねる。◇雲の上 内裏の暗喩。

【補記】文明八年(1476)八月十五夜、すなわち中秋の明月の晩に催された歌会での作。後土御門天皇が内裏を去って室町第に身を寄せたのは応仁元年(1467)。因みに応仁の乱が一応の終息を見せるのは翌年冬のことである。私家集大成の大阪市立大学図書館森文庫蔵『後土御門院御詠草』より。

【参考歌】藤原公衡「新古今集」
心には忘るる時もなかりけり御代の昔の雲の上の月

見恋

分け入りししげき野中のつらさをや月になぐさむ人の面影(紅塵灰集)

【通釈】草茫々の野の中を分け入って行く苦しさを、月を見て紛らわせるのだ、そこに愛しい人の面影を映し見て。

【補記】「分け入りし」とは、すなわち辛い恋路に踏み込んだこと。文明八年九月九日より始めた日次百首。栄雅(飛鳥井雅親)の点を得た。

寄莚恋

思ひ寝にみるとはすれどあや(むしろ)あやめもわかぬ夢ぞはかなき(紅塵灰集)

【通釈】あの人を思いながら寝入って夢に見ることは見るのだけれど、敷物の綾莚の文目(あやめ)――その筋目も分からない夢がはかないのだ。

【語釈】◇あや莚 綾織りの莚。次句の「あやめ」を導く。◇あやめもわかぬ 「模様が見分けられない」「条理が分からない、理不尽な」の両義。

【補記】文明八年三月三日の日次百首。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
時鳥なくやさ月のあやめ草あやめもしらぬ恋もするかな

述懐

いたづらに名のみながれて水無瀬川おろかなる身ぞありてかひなき(御詠草)

【通釈】むなしく名ばかりが流れて、水無瀬川のように実(じつ)のない、つまらぬ我が身など生きていても甲斐がないよ。

【語釈】◇水無瀬川(みなせがは) 水の流れが無い川。「みなせ」に「実(み)なし」を掛けている。摂津国の歌枕に同名の川があるが、ここでは普通名詞と見るべきだろう。◇おろかなる 今言う「愚かな」とはニュアンスの異なる用い方。「実(じつ)が十分でない」「至らない」といった意。

【補記】朝儀が衰頽し、天皇の地位が「名のみ」となっていた時代の苦渋に満ちた述懐歌。制作年などは未詳。私家集大成の内閣文庫蔵『後土御門院御詠草』より。

【参考歌】藤原公任「拾遺集」「百人一首」
滝の音はたえて久しくなりぬれど名こそながれてなほきこえけれ
  安嘉門院甲斐「新後撰集」
いたづらに名のみながれていさやまたあふ瀬もしらぬとこの山河
  紀俊文「続後拾遺集」
数ならぬみなせの川に行く水のふかき思ひぞ有りてかひなき


最終更新日:平成17年08月03日