足利義政 あしかがよしまさ 永享八〜延徳二(1436-1490) 号:慈照院・東山殿

永享八年(1436)正月二日、六代将軍義教の子として生まれる。母は日野重子。七代将軍義勝の同母弟。九代将軍義尚の父。日野富子を室とする。
幼名は三春、のち義成を名のる。嘉吉三年(1443)、義勝の夭折により家督を継ぎ、宝徳元年(1449)、元服して征夷大将軍となる。享徳二年(1453)、従一位権大納言に任ぜられ義政と改名。寛正元年(1460)、左大臣。寛正五年(1464)、准三宮。同年、弟の浄土寺門跡義尋を還俗させ、後嗣とし義視と改名させたが、翌年、夫人富子と間に実子義尚が生まれた。富子は義尚を将軍に擁立するため、山名持豊(宗全)を頼り、義視・義尚の後継争いが応仁の乱の一因となる。義政は文明五年(1473)、将軍職を義尚へ譲り、東山に山荘銀閣(慈照寺)を造って隠居した。戦乱をよそに、猿楽・茶の湯・連歌に明け暮れ、風雅の生活を送る。文明十七年(1485)、得度剃髪。延徳元年(1489)、近江出征中の義尚が死去すると再び政務を執るが、中風が再発して倒れ、翌年正月七日、死去した。五十五歳。法号は慈照院喜山道慶。贈太政大臣。墓は京都市上京区相国寺にある。
将軍在任中は乱・飢饉・災害が頻発したが、貴族・武家の文化が渾然一体化した東山文化の一時代を築き、後世の国民文化の形成に与えた影響は大きい。
極めて和歌を好み、寛正六年(1465)、飛鳥井雅親を推して勅撰集の撰集を企画したが、大乱のために成らなかった。家集に『慈照院准后御集』(慈照院殿義政公御集とも。以下、慈照院集と略)があり、また雅親判の『慈照院殿御自歌合』がある。

打ち続く飢饉・戦乱と混迷を極める世にあって、贅を尽くした邸宅を造り花見や猿楽に明け暮れた「無能」な将軍と酷評される義政であるが、銀閣に象徴される東山文化を創造した業績は近時ますます注目され、国際的にも高い関心を集めているようだ。例えばドナルド・キーン氏は「日本史上、義政以上に日本人の美意識の形成に大きな影響を与えた人物はいないとまで結論づけたい誘惑に駆られる」と評している(『足利義政 日本美の発見』角地幸男訳)。
建築・造園・絵画・茶の湯・連歌・能と、当時のあらゆる文化芸能に精通した義政は、また和歌を大変好んだ。三百首余りの歌を収録する家集『慈照院准后御集』を読めば、万葉集から同時代の二条派・冷泉派に至るまで、実に幅広く学び、修練に努めたことが窺える。
面白いのは義政が万葉集を一方ならず好んだように見えることだ。
  つらきかな曽我の河原にかるかやの束の間もなく思ひみだれて
この歌は万葉集の日並皇子の「大名児ををちかた野辺に刈るかやの束のあひだも我忘れめや」を踏まえたものだし、
  こぎわかれゆけばかなしき志賀の浦やわが古郷にあらぬ都も
このユニークな歌は、人麻呂の「灯火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず」から示唆されているだろう。洗練の行き着く果ての簡素な美に惹かれた義政であれば、万葉集を好んだとしても何ら不思議はないのかも知れない。
  更に今和歌の浦波をさまりて玉ひろふ世にたちぞかへらん
と和歌復興を目指し、二十二番目の勅撰集編纂に乗り出した義政であったが、応仁の乱の勃発によりこの計画は頓挫してしまった。その後も勅撰和歌集が編まれることは遂になかったのである。

「慈照院准后御集(慈照院殿義政公御集)」続群書類427(第15輯下)・私家集大成6
「慈照院殿御自歌合」群書類従221(第13輯)

立春日

春来ぬとふりさけみれば天の原あかねさし出づる光かすめり(慈照院集)

【通釈】春が来たと遥かに仰ぎ見れば、天空は茜色の現れた光が霞んでいる。

【補記】朝焼け空が霞によって滲む。立春歌らしく大ぶりに詠んでいる。

【本歌】菅原道真「新古今集」
天の原あかねさしいづる光にはいづれの沼かさえのこるべき

【参考歌】安倍仲麿「古今集」「百人一首」
天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも
  鷹司冬平「新千載集」
いとはやも春きにけらし天の原ふりさけみれば霞たなびく

故郷萩

今日はまた咲き残りけり古里のあすか盛りの秋萩の花(慈照院集)

【通釈】今日はまた咲き切らずに蕾が残った。古郷の飛鳥の秋萩の花は、明日が盛りだろうか。

【補記】地名「あすか」に「明日か」の意を掛ける。旅先の古京で萩の満開を今日か明日かと待ち侘びる心情。萩の名所としての明日香は、下記万葉歌に由来。

【本歌】丹比国人「万葉集」
明日香河ゆきみる丘の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ

尾花

置きまよふ野原の露にみだれあひて尾花が袖も萩が花摺り(慈照院集)

【通釈】野原に散乱する露に露が混じり合って、尾花の袖も萩の花の色を摺り付けている。

【語釈】◇尾花(をばな)が袖 尾花は穂の出た薄(すすき)。風に揺れるさまが人を招いて袖を振っているように見えるので「尾花が袖」と言いなした。◇花摺(ず) 花の汁をすりつけて衣などに色を染めること。

【参考歌】伊勢「伊勢集」
人もきぬ尾花が袖もまねかればいとどあだなる名をやたちなむ
  藤原範永「後拾遺集」
今朝きつる野原の露にわれぬれぬうつりやしぬる萩が花ずり

宿擣衣

見し花の色を残して白妙の衣うつなり夕がほのやど(慈照院集)

【通釈】散った花の色を残して真っ白な衣を擣っているのが聞こえる、夕顔の宿よ。

【語釈】◇見し花 かつて咲いていたのを見た花。夏に咲いていた夕顔の花を指す。◇色を残して 白妙の衣に、散ってしまった夕顔の花の残像を見ている。◇衣うつなり 布に艷を出すため、砧の上で槌などによって衣を叩くこと。晩秋の風物。◇夕がほ ウリ科ヒョウタン属の植物。夏に純白の花をつける。源氏物語夕顔の巻を匂わせる。

【補記】「慈照院殿御自歌合」の栄雅(雅親)の判に「源氏物語の夕がほの巻に、白妙の衣うつきぬたの音とはいへるを、花の色によそへられたるもをかしければ、勝にや」とある。

【本説】源氏物語「夕顔」
白拷の衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空とぶ雁の声、とり集めて忍びがたきこと多かり。端近き御座所なりければ、遣り戸を引きあけて、もろともに見出だしたまふ。…

初恋

今日はまづ思ふばかりの色みせて心の奧をいひはつくさじ(慈照院集)

【通釈】今日はさしあたりあの人をどれほど思っているか、そのけはいだけ見せて、心の奥まで言い尽くすことはすまい。

【補記】初々しい恋の駆引といったところか。なお歌題「初恋」は「恋の初期段階」の意。文明十三年(1481)九月八日、自邸の歌会での作。作者四十六歳。

【参考歌】藤原実能「金葉集」
わが恋のおもふばかりの色にいでば言はでも人に見えましものを

寄草恋

つらきかな曽我の河原にかる(かや)のつかのまもなく思ひみだれて(慈照院集)

【通釈】辛いことだ。曽我の川原で刈り取る萱の一束(ひとつか)――その束の間も休むことなく思い乱れて。

【補記】曽我(そが)は今の奈良県橿原市。大和川に注ぐ曽我川が流れる。万葉集の歌句から合成したような作ではあるが、古朴な調べを生かすことに成功した。

【本歌】日並皇子「万葉集」
大名児ををちかた野辺に刈る草(かや)の束のあひだも我忘れめや
  作者不詳「万葉集」
み吉野の秋津の小野に刈る草(かや)の思ひ乱れてぬる夜しぞ多き

【参考歌】作者不詳「万葉集」
真菅よし宗我の河原に鳴く千鳥間無し我が背子我が恋ふらくは

月前恋

さやかなる影はそのよの形見かはよしただくもれ袖の上の月(慈照院集)

【通釈】こんなに冴え冴えとした光は、あの夜を思い出すよすがとなろうか。さあ、ひたすら曇ってしまえ、袖の上に映る月よ。

【補記】恋に悩み、涙に濡れた袖に曇った月を映した夜々。「そのよ」は「その世」「その夜」の掛詞。

羇中船

こぎわかれゆけばかなしき志賀の浦やわが古郷にあらぬ都も(慈照院集)

【通釈】漕ぎ別れて行けば、悲しく思われる志賀の浦よ。わが故郷ではない古い都であっても。

【補記】「志賀」は琵琶湖の南西。景行・成務・仲哀三代の皇居の地と伝わり、天智天皇の大津京もこの地に営まれたので「都」と呼んでいる。

【参考歌】柿本人麻呂「万葉集」
灯火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず

述懐

わが思ひ神さぶるまでつつみこしそのかひなくて老いにけるかな(慈照院集)

【通釈】内心の思いを古色蒼然と神さびるまで包み隠してきた――その甲斐もないままに私は年老いてしまったのだなあ。

【補記】「神さぶる」は年を積み古色を帯びる意の動詞。主語は「わが思ひ」。この「思ひ」が如何なる思いであったにせよ、抱懐を表に出さぬまま秘めてきた、その年月の長さへの痛恨と些かの自虐的ユーモアが「神さぶる」の語に籠められていよう。


最終更新日:平成17年06月26日