菅沼斐雄 すがぬまあやお 天明六〜天保五(1786-1834) 号:桔梗舎(ききょうのや)桔梗園(ききょうぞの)

備中吉浜の人。庄屋北村賢親の長男。母はすみ(弘子とも称す)。上京後、大坂の武士菅沼武八郎の猶子となり菅沼姓を称した。名は綾雄・文雄とも書く。初名は政之進、のち此面・頼母。字は子英。
二十九歳になる文化十一年(1814)、京へ上り、香川景樹に入門して和歌を学ぶ。景樹の後釜として梅月堂香川景柄の養子となるが、やがて離縁され、景柄の世話で閑院宮家に仕える。菅沼姓に改めたのはこの頃のことという。文政元年(1818)、出仕を止め、景樹に従って江戸に下る。師の帰京後も江戸に留まり、浅草に住んで門人を指導した。桂門十哲の一人に数えられ、熊谷直好高橋残夢木下幸文と共に桂園門下の四天王と称される。また同郷の幸文・残夢と共に「備中の三秀」と称されたという。故郷備中の地を再び踏むことはないまま、天保五年(1834)八月二十五日、江戸にて死去した。四十九歳。浅草西徳寺に葬られた(同寺は現在台東区竜泉町にある)。
家集に『斐雄歌集』(続歌学全書十に抄出)、自撰歌集『桔梗舎和歌集』(笠岡市立郷土館による謄写版あり)。他の著に『袖くらべ』『苫舟』『知恩院花見記』など。明治三十九年には正宗敦夫が散佚した作を補い『菅沼斐雄家集』を編集刊行した。
以下には『斐雄歌集』『桔梗舎和歌集』より四首を抄出した。

春深微雨夕

夕月のかげのうつろふ池水にふる雨見えてかはづ鳴くなり(斐雄歌集)

【通釈】夕月の光が映っている池の水面に、波紋が見えて――小雨の降る中、蛙が鳴いている。

【語釈】◇ふる雨見えて 降る雨が水面に輪を描くのが見えて。◇かはづ もとカジカガエルを言ったが、のち蛙一般を指す歌語となった。

【補記】題は白氏文集の詩「庭松」に見える句。夕月・春雨・蛙声と、晩春らしい風物を三つ入れて無理なく纏めている。

水郷鴫

夕まぐれ淀野の沢をたつ(しぎ)(ゆく)へさびしき水の色かな(桔梗舎和歌集)

【通釈】夕暮れ時、淀野の沢を飛び立つ鴫――そのゆくえを思えば、鴫の去った水のおもむきが寂しげである。

【語釈】◇淀野(よどの) 山城国の歌枕。京都市伏見区。桂川・宇治川・木津川が合流し、水が淀むゆえにこの名がついたかという。真菰・母子草・鴫などの名所。◇鴫 チドリ目シギ科に分類される鳥。多くは秋に渡来する。繁殖期を除き、単独で行動することが多い。◇水の色 目に見た水の感じ。色彩のみの意ではない。

【補記】鴫は飛び立つ際に鋭い声を残してゆくことが多く、冷やかな秋水の趣と相俟って悲しい風情のものとされた。そうした伝統的趣向に依りながら、鴫が立ち去ったあとの水の「色」にさびしさを見て、鮮明な印象を残す一首となった。『桔梗舎和歌集』は斐雄が百九十余首の自信作を撰した歌集。長く埋もれていたが、昭和十一年(1936)、自筆原本が発見され、笠岡市立郷土館により謄写版が刊行された。

【参考歌】西行「新古今集」
心なき身にもあはれは知られけり鴫たつ沢の秋の夕暮
  後鳥羽院「後鳥羽院御集」
をしねほす伏見のくろにたつ鴫の羽音さびしき朝霜の空

海上雲

わたの原立ちきほひぬるむら雲のかげより波ぞ顕はれにける(桔梗舎和歌集)

【通釈】海原の上、競うように湧き起こっていた叢雲――その陰から、曙の波が見えるようになったのだった。

【補記】いつと時は指定していないが、明け方の海が想像される。暗い海の上で犇めき合う雲、あたりが明るくなるにつれて、雲の陰になっていた海面に波が見え始めた。生鮮たる叙景歌。

鎌倉に遊びて

()がくれに風をたためる心地して(あふぎ)(やつ)はすずしかりけり(桔梗舎和歌集)

【通釈】木陰に風を畳み重ねているような気持がして、名のとおり扇が谷は涼しいのであった。

【語釈】◇風をたためる 「扇が谷」の地名に因み、風が重なるように吹くことを「たためる」と言った。◇扇が谷 相模国鎌倉郡の地名。鎌倉幕府跡の西。寿福寺・海蔵寺などの寺があり、かつては鎌倉幕府の要人も住んだ土地。全体が谷戸の地形をなす。

【補記】作者は文政元年(1818)から死去する天保五年(1834)まで江戸に住んだので、その間鎌倉に遊んだことがあったのであろう。地名から発想した即興の歌で、軽みが値打ちである。


公開日:平成21年11月26日
最終更新日:平成21年11月26日