藤原敦忠 ふじわらのあつただ 延喜六〜天慶六(906-943) 号:枇杷中納言

左大臣時平の三男。母は『公卿補任』によれば在原棟梁女、『尊卑分脈』によれば本康親王女、廉子。兄に右大臣顕忠・大納言保忠がいる。子に助信・佐時・佐理(能書家の佐理とは別人)・明昭、および大納言延光の室になった女子がいる。源等の女子、藤原仲平の女子明子、藤原玄上の女子らを室とした。また西四条の斎宮雅子内親王や越後蔵人と呼ばれた女房らに恋歌を贈っている。
延喜二十一年(921)正月、従五位下。同年二月、昇殿を許される。同二十三年、侍従。延長六年(928)、従五位上に昇り、左兵衛佐。以後、右衛門佐・左近権少将・伊予権守などを歴任し、承平四年(934)正月、従四位下・蔵人頭。さらに左近中将・兼播磨守を経て、天慶二年(939)正月、従四位上。同年八月、参議。同五年三月、従三位任権中納言。同六年三月七日、薨(三十八歳)。その夭折を、世の人々は菅原道真の怨霊のしわざと噂したという。枇杷中納言、本院中納言と号す。
風流を好んだ敦忠は、比叡山麓の西坂本に数寄を凝らした山荘を構え、伊勢中務を招いて歌を詠ませるなどした(拾遺集)。後撰集初出、勅撰入集は三十首。三十六歌仙の一人。百人一首に歌を採られている。

1首  1首  8首 計10首

題しらず

わがごとく物思ふときやほととぎす身をうの花のかげに啼くらむ(続古今213)

【通釈】ほととぎすは私と同じ様に、何か思い悩む時、我が身の境遇の辛さを嘆いて、卯の花の蔭で啼くのだろうか。

【補記】「うの花」はウツギ。初夏、白い花をつける。「う」に「憂」を掛け、「身をう」に「身を憂し」を響かせている。

【参考歌】作者不明「古今和歌六帖」
神山の身をうの花のほととぎす悔し悔しとねをのみぞ啼く

【主な派生歌】
ほととぎすきけば心もなぐさみぬ身をうの花の垣根なれども(藤原公重)
ほととぎす花橘はにほふとも身をうの花の垣根わすれな(西行)
声たてぬ身をうの花のしのびねはあはれぞふかき山ほととぎす(〃)
世の中をいとふ宿にはうゑおきて身をうの花のかげにかくさむ(慶融[続千載])

御匣殿の別当に、年をへていひわたり侍りけるを、えあはずして、その年の師走のつごもりの日つかはしける

物思ふと過ぐる月日も知らぬまに今年は今日に果てぬとか聞く(後撰506)

【通釈】物思いをしていて、過ぎ去って行く月日も知らないうちに、今年は今日で終りだとか聞くことだよ。

【語釈】◇御匣殿(みくしげどの)の別当 左大臣仲平女、藤原明子。従兄弟にあたる敦忠の妻となり、敦忠の死後、出仕して御匣殿別当と称された。但し明子でなく貴子(忠平女)と見る説もある。

【補記】恋の心を詠んだ歌であるが、後撰集では冬の部の末尾に置かれている。なお『大和物語』九十二段に「左の大殿の君」に贈った歌として見える。

【他出】古今和歌六帖、大和物語、俊成三十六人歌合、時代不同歌合、題林愚抄

【参考歌】小野小町「小町集」「続後撰集」
ながめつつ過ぐる月日もしらぬまに秋のけしきになりにけるかな

【主な派生歌】
もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世もけふや尽きぬる([源氏物語])

はじめて人につかはしける

雲ゐにて雲ゐに見ゆるかささぎの橋をわたると夢に見しかな(新勅撰636)

【通釈】雲の上にあって、さらに見上げるほど空高く見える鵲の橋――その橋を渡ると夢に見たことです。

【語釈】◇雲ゐ 宮中を暗喩。◇雲ゐにて雲ゐにみゆる 恋の相手が宮中でも見上げるような高い地位にあることを言う。◇かささぎの橋 鵲が翼を並べて天の川を渡すという伝説があった。また宮中の御階(みはし)をも言い、ここでは両意を含む。

【補記】『敦忠集』では詞書「やむごとなき人に」。新勅撰集はこの歌に続けて「よみ人しらず」の返歌を載せる。「夢なれば見ゆるなるらんかささぎはこの世の人のこゆる橋かは」。

まさただがむすめにいひはじめ侍りける、侍従に侍りける時

身にしみて思ふ心の年ふればつひに色にも出でぬべきかな(拾遺633)

【通釈】つくづくと深く思う心が、久しい年を経たので、ついに思い余り、外にあらわれてしまいそうです。

【補記】「まさただがむすめ」は不詳。敦忠が侍従になったのは延喜二十三年(923)正月。

【他出】俊成三十六人歌合、時代不同歌合

御匣殿に初めてつかはしける

今日そゑに暮れざらめやはと思へどもたへぬは人の心なりけり(後撰882)

【通釈】初めてあなたと結ばれた今日だからと言って、日が暮れないはずはあろうか。そうは思うけれども、夜になるまでの時間を堪えきれないのは私の心であるよ。

【語釈】◇御匣殿 御匣殿別当に同じ。敦忠の妻となった藤原明子。◇そゑに 其故(そゆゑ)に。今日初めて貴女と結ばれた、その故に。◇暮れざらめやは 日が暮れないはずはない。夜になればまた逢える、という意を含む。◇人の心 この「人」は遠回しに自分を指す。

【他出】敦忠集、三十人撰、三十六人撰、俊頼髄脳、定家八代抄、愚問賢註

【主な派生歌】
けふそゑに冬の風とは思へどもたえずこきおろすよもの木の葉か(藤原定家)

しのびて御匣殿の別当にあひかたらふと聞きて、父の左大臣の制し侍りければ

いかにしてかく思ふてふ事をだに人づてならで君にかたらむ(後撰961)

【通釈】どうにかして、このように思っているという事だけでも、人伝でなく、直接あなたにお話したいものです。

【補記】「父の左大臣」は藤原仲平。作者にとっては叔父にあたる。この歌、拾遺集に重出。ただし「いかでかはかく思ふてふ事をだに人づてならで君にしらせむ」とある。

【他出】敦忠集、大和物語、定家八代抄

【主な派生歌】
今はただ思ひたえなんとばかりを人づてならでいふよしもがな(*藤原道雅[後拾遺])
いかでなほ恋ひ死ぬばかりこふる身を人づてにだにさぞときかれん(藤原家良)

題しらず

逢ひ見てののちの心にくらぶれば昔は物も思はざりけり(拾遺710)

【通釈】逢瀬を遂げた後の、この切ない気持に比べれば、まだ逢うことのなかった昔は、物思いなど無きに等しかったのだ。

【語釈】◇逢ひ見てののちの心 逢って情交を遂げた後の心。◇昔 逢う以前。

【補記】拾遺集では恋二に部類して「逢ひ見」の語を持つ歌と並べており、逢って後つのる恋心を詠んだ歌として排列している。『敦忠集』では「御匣殿の別当にしのびてかよふに、親ききつけて制すとききて」の詞書を付した「いかにしてかく思ふてふことをだに人づてならで君にかたらむ」に続けて載せている。これによれば、ひそかに関係を持ったものの、その後親に知られ、逢い難くなった状況で詠まれた歌になる。ところが藤原公任撰『拾遺抄』での詞書は「はじめて女のもとにまかりて、又の朝につかはしける」となっており、初めて情を通じた女のもとに贈った後朝(きぬぎぬ)の歌となる。『古今和歌六帖』でも「あした」の類題に収められ、後朝の歌と解されている。

【補記】百人一首の古写本・古注・カルタは普通第四句を「昔は物」とする。ここでは拾遺集の古写本に従い、「昔は物」とした。

【他出】敦忠集、古今和歌六帖、拾遺抄、三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、定家八代抄、百人一首、六華集

【参考歌】源宗于「後撰集」
あづまぢの小夜の中山なかなかに逢ひ見てのちぞわびしかりける

【主な派生歌】
逢ひ見てののちこそ恋はまさりけれつれなき人を今は恨みじ(永源[後拾遺])
あだなりし人の心にくらぶれば花もときはのものとこそ見れ(藤原忠通[金葉])
逢ひ見てのあしたの恋にくらぶれば待ちし月日は何ならぬかな(祐子内親王家紀伊)
思ひ出づるその慰めもありなまし逢ひ見て後のつらさ思へば(*藤原季経[千載])
うたたねの夢に逢ひ見て後よりは人もたのめぬ暮ぞ待たるる(源慶 〃)
逢ひ見てののちの心を先づ知ればつれなしとだにえこそ恨みね(藤原定家)
思ひいづる後の心にくらぶ山よそなる花の色はいろかは(〃)
恨み慕ふ人いかなれやそれはなほ逢ひ見て後の憂へなるらむ(京極為兼[玉葉])
今までに昔は物をとばかりもうらみぬ身をば恨みやはせぬ(後水尾院)
いかにせん昔はものをとばかりの歎きしらるるけさのおもひを(後西院)
うつそみのよのはかなさにくらぶれば桜は猶もひさしかりけり(鵜殿余野子)
あいみてののちの心の夕まぐれ君だけがいる風景である(俵万智)

しのびてすみ侍りける女につかはしける

逢ふことをいざ穂に出でなむ篠すすき忍びはつべき物ならなくに(後撰727)

【通釈】あなたと私が逢っていることを、さあ世間にはっきりさせてしまいましょう。篠薄がいつかは穂を出すように、最後まで隠しおおせるものではないのですから。

【語釈】◇穂にいで 薄の穂が出ること。情事の露顕を喩えて言う。「しのすすき」の縁語。◇篠(しの)すすき 穂の出る以前のススキのことと言う。

西四条の斎宮まだみこにものし給ひし時、心ざしありておもふ事侍りけるあひだに、斎宮にさだまりたまひにければ、そのあくるあしたにさか木の枝にさしてさしおかせ侍りける

伊勢の海のちひろの浜にひろふとも今は何てふかひかあるべき(後撰927)

【通釈】伊勢の海の広大な浜に行って拾うとしても、今はどんな貝があるというのでしょうか。もはや伊勢斎宮となられたあなたを、いくらお慕いしても、何の甲斐もないでしょう。

【語釈】◇西四条の斎宮 醍醐天皇の皇女、雅子内親王。承平元年(931)、朱雀天皇の斎宮に卜定される。承平六年退下。のち右大臣師輔の妻となり、高光・為光らを産む。

【補記】雅子内親王が斎宮に卜定された翌朝、榊の枝に挿して内親王のもとに差し出して置かせた歌。榊は神事に用いる木であり、また常緑樹であるから変わらない心を暗示する。

【他出】敦忠集、五代集歌枕、俊成三十六人歌合、時代不同歌合、歌枕名寄

西四条斎宮のもとに、花につけてつかはしける

にほひうすく咲ける花をも君がため折りとし折れば色まさりけり(玉葉1612)

【通釈】彩り淡く咲いた花ですが、あなたのために心を込めて折りましたので、こんなに色が濃くなったのです。

【補記】雅子内親王の返しは「をらざりし時よりにほふ花なればわがためふかき色とやはみる」。


公開日:平成12年08月24日
最終更新日:平成21年01月30日