家持秀歌選 第一回

坂上大嬢に贈る歌

撫子がその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ(3-408)

夢の逢ひは苦しかりけり(おどろ)きて掻き探れども手に触れねば(4-741)

夜のほどろ吾が出でて来れば我妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影に見ゆ(4-754)


二十代初め頃の家持が、のち正妻となる坂上大嬢(さかのうえのおおいらつめ)に贈った歌から、三首ほどとりあげてみたい。

石竹之 其花尓毛我 朝旦 手取持而 不戀日将無
撫子がその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ

題詞には「大伴宿禰家持、贈同坂上家大嬢歌一首」とあるのみ。この歌がいつ頃作られたのか、万葉集巻三の排列からも、推測の手がかりは得難い。しかし、歌の内容からして、家持が大嬢を正妻として家に迎える以前の作と思われる。天平十一、二年前後とすれば、家持は二十二、三歳ということになる。
坂上大嬢は大伴坂上郎女の長女。家持にとっては妻である以前に従妹であった。いとこ同士の恋愛・結婚は、当時ありふれたものである。と言っても、推奨されていたわけではない。
同じ頃家持が大嬢に贈ったと思われる歌の題詞の脚注には「離絶数年、復会相聞往来」とあり(巻四-七二七)、関係が途絶えていた時期もあったことがわかる。その理由は定かではないが、幼馴染みの恋は決して順風満帆というわけにはいかなかった。

初二句撫子がその花にもがは、「撫子のその花にもが」と訓むテキストもある。「之」はガともノとも訓めるからである。「撫子の…」の方が耳触りはよい気もするが、家持自身の歌に「那泥之古我 曾乃波奈豆末尓(なでしこが その花妻に)」(巻十八-四一一三)の例もあり、「が」とするのが良いだろう。「その」は、対象を強く指示する用法。「三諸のその山なみに」(巻七-一〇九三)、「九月のその初雁の」(巻八-一六一四)、「大の浦のその長浜に」(同一六一五)など、万葉集に同様の例は少なくない。「花にもが」のモガは、強い願望をあらわす。「撫子の花、(あなたは)その花であってほしい」の意になる。
三句以下、朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ。分かりづらいのは、「恋ひぬ」の語である。「恋ふ」は異性などに惹かれる心をあらわすのが今に変わらぬ原義だが、古歌では離れた相手を思慕する場合に使われるのが通常で、「手に取り持ちて」恋ふ、とは異例の言い方である。この歌の場合、『萬葉集古義』に「こゝの戀は、目ノ前に憂つゝ、愛著(ウツクシミ)する意なり」とある通り、「心を配りつつ、めでいつくしむ」といった意味であろう。その場にいる相手に対しても、気をくばり、思いやりつつ、いとおしむ心は「恋」である、と家持は言っているのだと私は理解したい。「恋ひぬ日なけむ」のナケムは、ナシの活用形に推量の助辞ムがついたもの。「毎朝毎朝、手に取っては愛(め)でいとしまない日とてないだろう」。
この歌は譬喩歌に分類されているが、言うまでもなく「なでしこ」は大嬢を比喩している。可憐な野の花は、年若い少女のイメージにいかにも相応しい。もっとも、歌に詠んだ撫子は、庭に植えた花を言っている。この歌より早い時期の作と思われるが、

我が屋戸に蒔きし撫子いつしかも花に咲きなむなそへつつ見む(8-1448)

これも家持が大嬢に贈った歌で、やはり恋人を撫子の花に擬えているのである。
この花の名は「撫で」を含み、「手に取り持ちて」の句と呼応する。庭に植えたのを、ただ眺めて賞美したいのではない。手にとって愛撫したい、という心である。「朝」と言って、朝露に濡れた花を想像させ、いっそう可憐さを添えるが、朝床の中での愛撫を暗示してもいるのである。
同じ頃家持が大嬢に贈った作には、

朝に(け)に見まく欲りするその玉を如何にせばかも手ゆ(か)れずあらむ(3-403)

という歌もある。ここでは大嬢を玉に譬えているが、玉もまた掌中に愛撫するものであった。

ところでこの歌の背後には、結婚と同居の問題があると思う。言うまでもなく、当時の貴族は通い婚を原則としていた。恋人を正妻にしたからといって、即生活を共にできるというものではなかった。本家に同居する妻は家刀自(いえとじ)と呼ばれたが、その資格を有するためには、氏族の神を祭る巫女の役目を果たさねばならなかったし、田荘の管理などもキチンと出来なければならなかった。貴族の家の主婦となるには、習得すべき難業が少なくなかったのである。結婚への障碍を克服した後も、同居に至るまでには、なお乗り越えるべき高い垣根があった。家持がしきりに大嬢との同居を願う歌を残している背景に、そういう事情を考えるべきだと思う。
通い婚であれば、夜が明ける以前に別れなければならない。朝床で愛撫を交わすことは許されなかったのである。

夢之相者 苦有家里 覺而 掻探友 手二毛不所觸者
(いめ)の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば

巻四の七二七番から七五五番まで、二十九首にわたって家持と大嬢の贈答歌が続く。右に挙げたのは、その中核をなすといえる「更大伴宿禰家持、贈坂上大嬢歌十五首」の最初の一首である。
前節でふれた「離絶数年」云々の脚注は、この十五首の歌群の題詞に付されたものである。「数年の絶縁期間を経て、再び歌を往来するようになった」由であるが、家持自身が書き加えた背景説明とみて間違いあるまい。こうした殊更な注釈からは、自分たちの恋を劇化しようという家持の意図が感じられて興味深い。
天平時代の万葉歌の特徴の一つとして、小説的な構成への関心が挙げられると思う。それは大伴旅人ら筑紫歌壇の歌人たちによる連作などにも見えるし、巻十五狭野茅上娘子中臣宅守の贈答歌群にも著しい。天平人たちは、唐渡来の小説を愛読していた。なかでも彼らに大きな影響を与えたのが初唐の張文成作『遊仙窟』であった。黄河の上流地方を旅していた役人である主人公が、ふと桃源の仙境に入り込み、十娘(じゅうじょう)という名の美女と契りを結ぶ、一夜のエピソードを語った伝奇風の恋愛小説である。
右の家持の歌は、『遊仙窟』の一節の翻案と言っていいようなものだ。歌意は明瞭と思うが、一応訳せば、
「夢での逢瀬とは、苦しいものだったのですね。目が覚めると(貴方のすがたが無く)、いくら手探りしても、触れることさえ出来ないのですから」。
『遊仙窟』に相当する一節は、次の通りである(訓読は八木沢元著『遊仙窟全講』による)。

少時にして坐睡すれば、即ち夢に十娘(じふぢやう)を見る。驚き覚めて之を(と)れば、忽然として手を空しくす。

雨露をしのぐ宿を乞うた主人公は、豪壮な邸宅に招かれ、一家の女主人十娘の風流な応対を受ける。一通りの挨拶がすむと、奧座敷に通されるが、女主人の妖艷さに心は乱れ、ついに使用人を介して艶書と詩を贈る。直後、睡魔に襲われ、十娘の夢を見る、というシーンである。
小説はこのあと、十娘と主人公の詩の贈答を中心に展開され、きわめて官能的な情交場面をクライマックスとして終わる。絢爛たる美辞で綴られた、巧緻なポルノグラフィといった印象もある小説である。
大宝四年(704)に帰朝した遣唐使が齋したものと考えられ、奈良時代に至ると、貴族・官僚層の間で競って読まれたことは、万葉集によく窺える。巻十二には、家持の歌とよく似た、作者不明の歌が載る。二首を並べてみよう。

(うつく)しと思ふ我妹(わぎも)(いめ)に見て起きて探るになきが(さぶ)しさ(12-2914)
夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば

二句切れ・倒置表現を用いた家持の歌が、切迫した心情を伝え、優れているのは一目瞭然であろう。巻十二の「起きて探る」と、家持の「おどろきて掻き探れども」の、描写力の違いも大きい。むろん、巻十二の歌も悪い歌ではない。口にのせやすく、耳に心地よい調子の良さがある。同様の光景を詠んだ二首の間には、いわば、口誦文芸と創作文芸との違いが横たわっている。
家持は『遊仙窟』の大胆な情痴描写や妖艷な詩句に魅せられたろうが、上に引用したような、感覚的にリアルな描写にも惹き付けられるところがあったに違いない。主人公のふとした起居ふるまいを、簡潔に鋭く造型する文の力である。彼は小説の一場面を書割のように借用しただけでなく、その文体の力を適確に歌に応用してみせたのである。

このあと、大嬢に恋の苦しみを綿々と訴えるように歌は続く。『遊仙窟』を典拠とする作がほかにもあるので、出典と並べて引用しよう。

一重のみ妹が(ゆ)ひけむ帯をすら三重結ぶべく(あ)が身はなりぬ(742)
日日衣(ゆる)び、朝な朝な帯(ゆる)ぶ。(遊仙窟)

夕さらば屋戸開け(ま)けて我待たむ夢に相見に来むと云ふ人を(744)
今宵戸を(とざ)すこと(な)かれ。夢裏(むり)(きみ)(ほとり)に向はん。(遊仙窟)

佐佐木幸綱氏は一連の贈答歌群に、家持と大嬢の二人による「共感の世界」の造型を見ていたが(『萬葉へ』)、そうした世界を成り立たせる背景には、『遊仙窟』や『玉台新詠』といった耽美的な文学世界への共通理解があったことを見逃せない。エロティックな恋愛小説や恋愛詩を耽読しつつ、自らの恋をドラマチックに仕立て、あるいは詩的に装飾したいという願望を家持たちは抱いていた。「青春の文学」がすでに天平歌人たちのサロンにおいて花開いていたのである。

夜之穂杼呂 吾出而来者 吾妹子之 念有四九四 面影二三湯
夜のほどろ吾が出でて来れば我妹子(わぎもこ)が思へりしくし面影に見ゆ

前に見た「夢の逢ひは…」を冒頭とする、家持が坂上大嬢に贈った十五首の、最後から二番目の歌である。
夜のほどろは万葉に三例しか見えず、平安和歌では使われなくなる言い方である。ホドロは万葉集で雪の降るさまにも用いられ、「沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも」(巻八 一六三九)、「我が背子を今か今かと出で見れば沫雪降れり庭もほどろに」(巻十 二三二三)の二例がある。語の来歴は諸説あるが、おそらくホドクと同源で、雪ならまばらに降り積もった状態、夜について言う時は、闇がほどける頃――闇の中に暁光が忍び込むように広がり始める刻限をいうのではないかと思われる。
吾が出でて来れば、坂上大嬢と一夜を過ごした寝屋を出て来て、まだ暗い道を家へ向かって行くのである。
思へりしくしは耳慣れない言い方だが、文法的にはオモヘリ・シク・シと分解できる。オモヘリは「思ひあり」を約めた語(ラ変動詞)で、思いが表情にあらわれる意。坂上郎女の長歌に「物悲しらに 思へりし」(巻四 七二三)とあるのは、「物悲しげな顔つきをしていた」ということである。これに続くシクは、はやく鹿持雅澄が指摘したとおり、過去の助動詞キのク語法で、「思へりき」を体言化している。最後のシは強めの助辞。物思いに耽り、それが顔にあらわれていた、その表情が、の意。
一首の大意は、「夜が明け染める頃に家を出て来たので、思いに沈んでいたあなたの面ざしがありありと目に浮んで、離れません」といったところ。
いわゆる後朝(きぬぎぬ)の別れの歌であるが、暁(あかとき)でも曙でも朝明けでもなく、「夜のほどろ」と言ったのが一首の雰囲気を決定し、またよく効いている。残して来た恋人の悲しげな面ざしが、暁闇の中にようやく見分けられる程、ほのかに浮んでいた――そんな情景と同時に、まだ光よりも闇の方が多い暁の道を、独り鬱屈して帰って行く話者の姿もまた、きわめて印象的に想像される。
濁音が多く、第二句は字余り(ただし、当時の発音からも字余りと言えるかどうかは定かでない)。耳ざわりは決してよくなく、むしろ佶屈とした体の歌であるが、それがかえって作者の心情を響きとしてよく伝えている。
この歌につづく、坂上大嬢との贈答の結びをなす一首は、

夜のほどろ出でつつ来らく度多(たびまね)くなれば吾が胸断ち焼くごとし

この作もまた『遊仙窟』に典拠をもつ。「吾が胸断ち焼くごとし」は、小説中の描写「腸(はらわた)熱きこと焼くが如し」「腹穿つこと割(さ)くに似たり」に拠っている。
恋人の夢を見て闇を手探りする、といった描写に始まった一連の恋歌は、暁の道を独り帰ってゆく話者のイメージによって締めくくられる。小説的な構成への関心が窺われるばかりではない。家持は自らを物語中の登場人物に見立てているかのように思われる。


最終更新日:平成16年4月3日

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