中臣宅守 なかとみのやかもり 生没年未詳 

意美麻呂の孫。東人の息子。万葉歌人で右大臣に至った中臣清麻呂は叔父。
天平十二年(740)以前、越前国に配流される。罪状は不明。万葉巻十五目録によれば、蔵部の女嬬狭野茅上娘子との重婚罪が原因とも解釈できるが、否定する説が有力。天平十三年九月、前年の恭仁京遷都に伴う大赦で流人は全て赦免され、この時宅守も帰京を許されたと思われる。
天平宝字七年(763)正月、従六位上より従五位下に昇叙される。『中臣氏系図』によれば、翌年、恵美押勝の乱に連座し、除名されたという。
万葉集巻十五に四十首の歌を載せる。以下、そのうちの十三首を抄出した。

中臣朝臣宅守の、蔵部の女嬬狭野茅上娘子を娶(めと)る時、勅して流罪(るざい)に断じて、越前国に配す。ここに夫婦別るることの易く会ふことの難きを相嘆き、各(おのもおのも)(かな)しみの情(こころ)を陳(の)べて、贈り答ふる歌

塵泥(ちりひぢ)の数にもあらぬ我ゆゑに思ひ侘ぶらむ妹がかなしさ(15-3727)

【通釈】塵や泥のようにつまらない、物の数にも入らない私のために、辛い思いをしているあなたが愛しいことよ。

 

青丹よし奈良の大道(おほぢ)は行き良けどこの山道は行き悪しかりけり(15-3728)

【通釈】奈良の都の大路は歩きやすいけれど、流刑の地に向かうこの山道は行きづらいことでした。

【補記】狭野茅上娘子の「あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて安けくもなし」を承けた歌か。

 

(かしこ)みと()らずありしをみ越路(こしぢ)(たむけ)に立ちて妹が名()りつ(15-3730)

【通釈】ずっと恐れ慎んで告げずにいましたが、越路の峠に立つと、恋しさに堪えきれず、とうとうあなたの名前を口に出してしまいました。

【補記】「み越路の峠」は近江国と越前国の境をなす愛発(あらち)の峠。
以上は、左注に「上道して作る歌」とある四首の内三首。「上道」は旅路につくこと。

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あかねさす昼は物思(ものも)ひぬば玉の夜はすがらに()のみし泣かゆ(15-3732)

【通釈】昼は物を思い、夜は夜じゅう声をあげて泣いてばかりいます。

【参考歌】作者未詳「万葉集」13-3297
玉たすき 懸けぬ時なく 我が思ふ 妹にし逢はねば あかねさす 昼はしみらに ぬばたまの 夜はすがらに 寐も寝ずに 妹に恋ふるに 生けるすべなし

【主な派生歌】
思ひ出でて夜はすがらに音をぞなく有りし昔の世々のふるごと(*源実朝)

 

人よりは妹そも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ(15-3737)

【通釈】他の人よりあなたが悪いのです。恋することもなくいられたら良いのに、私にこんなに物思いをさせて。

 

思ひつつ()ればかもとなぬば玉の一夜(ひとよ)もおちず(いめ)にし見ゆる(15-3738)

【通釈】思いながら寝入るからか、性懲りもなく、一夜も漏らさずあなたを夢に見ることだ。

【参考歌】作者未詳「万葉集」15-3647
我妹子がいかに思へかぬばたまの一夜もおちず夢にしみゆる

【補記】小野小町「思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを」(古今集)に影響を与えたか。

 

逢はむ日をその日と知らず常闇(とこやみ)にいづれの日まで(あれ)恋ひ居らむ(15-3742)

【通釈】逢える日をいつの日とも知らないまま、この世が真っ暗闇のように泣き暮らして、いつまで私はあなたに恋い焦がれているのだろうか。

【補記】以上四首は、宅守が配所の越中から狭野茅上娘子に贈った十四首より。

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過所(くわそ)なしに関飛び越ゆるほととぎす我が身にもがも止まず通はむ(15-3754)

【通釈】通行手形もなしに関を飛び越えてゆく時鳥よ、おまえが私であったらなあ。あの人のもとへ絶えず通うのに。

【補記】「過所」は関所の通行手形。「ふだ」と訓む説などもある。第四句、原文は「多我子尓毛」で訓義未詳。ここでは「和我未尓毛我毛」の誤写とする賀茂真淵説を採った。

 

さす竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ(15-3758)

【通釈】大君の宮殿に仕える人々は、今でも人をからかうことばかり好んでいるのだろうか。

【補記】「さす竹(だけ) の」は「大宮人」の枕詞。「人なぶり」は面白がって人の悪口を言ったり意地悪をしたりすること。

 

山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹(わぎも)(15-3764)

【通釈】山川を間に隔てて遠くあるとしても、心ばかりは近いとお思いになって下さい、我妹子よ。

 

まそ鏡かけて(しぬ)へと(まつ)り出す形見のものを人に示すな(15-3765)

【通釈】心にかけて偲んでくれと差し上げる形見の品を、人には見せないで下さい。

【補記】「まそ鏡」は「かけて」を言うための枕詞。「形見のもの」が鏡でないことは、次の歌が「うるはしと思ひし思はば下紐に結ひ付け持ちて止まず偲はせ」とあることから明らか。
以上は、宅守が娘子に贈った十三首の内四首。

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今日もかも都なりせば見まく欲り西の御厩(みまや)()に立てらまし(15-3776)

【通釈】今日あたり、都にいたのだとしたら、あなたに逢いたいと思って、西の御厩の外に立っていただろうに。

【補記】「西の御厩」は右馬寮であろうと言う。「戸外での待ち合わせは、二人の関係が正式の婚姻でなかったことを思わせる」(新古典大系)。茅上娘子の「帰りける人来たれりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて」ほか一連の作に答えた歌の一つ。

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恋ひ死なば恋ひも死ねとやほととぎす物()ふ時に来鳴き(とよ)むる(15-3780)

【通釈】恋い死ぬのなら恋い死にせよと言うのか、時鳥が、物思いする時にやって来て鳴き声を響かせる。

【補記】左注に「花鳥に寄せて思ひを陳べて作る歌」とある七首の内の一首。

【参考歌】作者未詳(人麿歌集歌)「万葉集」巻十一
恋ひ死なば恋ひも死ねとか我妹子が我家の門を過ぎて行くらむ
恋ひ死なば恋ひも死ねとや玉桙の路行く人のことも告げなく


最終更新日:平成15年12月21日