略伝 737(天平9)年、外従五位下。739(天平11)年、従五位下。翌年、関東行幸に従駕し、赤坂頓宮で従五位上に昇叙される。742(天平14)年4月、皇后宮での宴に際し、正五位下。747(天平19)年、従四位下。749(天平勝宝1)年11月、大嘗祭の後に従四位上。聖武天皇崩御の直後である756(天平勝宝8)年5月、朝廷誹謗の廉で内堅(天皇の側近)淡海三船と共に禁固される(三日後赦免)。この時の官職は出雲守。のち土佐守に左遷され、翌年の奈良麻呂の乱に連座して任国配流とされる。光仁即位後の770(宝亀1)年11月に至ってようやく従四位上に復位され、翌月大和守に任じられる。771(宝亀2)年の大嘗祭に際しては、佐伯今毛人と共に南門を開く役を担い、この功により正四位下に昇叙される。775(宝亀6)年1月、従三位。777(宝亀8)年8月、薨ず。時に従三位大和守。薨伝には「少くして才幹有り、略書記に渉れり。家を起こして大学大允たり。贈太政大臣藤原朝臣不比等、女を以て之に妻(めあ)はす。勝宝年中、従四位上衛門督に累遷す。俄に出雲守に遷さる。疎外せられてより、意常に鬱々たり。紫微内相藤原仲満、誣るに誹謗を以てして、土佐守に左降せらる。促して任に之かしむ。未だ幾くならず、勝宝八歳の乱に、便ち土左に流さる。天皇罪を宥して入京せしむ。其旧老なるを以て従三位を授く。薨ずる時年八十三」。
万葉には、752(天平勝宝4)年閏3月、私邸に入唐副使大伴古麻呂等を招き餞の宴を催した旨見える(19/4262・4263)が、自身の歌はない。この時衛門督とある。
(注)角田文衞「不比等の娘たち」(著作集5所収)は、天平十九(747)年正月無位から正四位上に叙せられた藤原朝臣殿刀自を古慈斐の正室に比定している。