伝未詳。姓は忌寸(いみき)。名は意吉麻呂・意寸麻呂とも書く。人麻呂・高市黒人などと同じ頃、宮廷に仕えた下級官吏であったらしい。行幸の際の応詔歌、羇旅歌、宴席で物名を詠み込んだ即興歌などを残している。万葉集に十四首を残す(すべて短歌)。
二年
【通釈】引馬野に色美しく映える榛(はん)の木の林の中へ皆で入り乱れ、衣を染めなさい。旅の記念に。
【語釈】◇引馬野 愛知県宝飯郡御津町御馬に引馬神社があり、その辺りかという。但し静岡県浜松市付近(旧遠江国敷智郡)とする説もある。◇榛原 榛(はり)はハンノキ。樹皮や実を染料に用いるという。古くは萩と解された。
【補記】大宝二年(702)冬十月、持統太上天皇の参河国行幸に従駕した時の歌。
【他出】五代集歌枕、袖中抄、歌枕名寄、夫木和歌抄
長忌寸意吉麻呂の結び松を見て
【通釈】岩代の崖のほとりの松の枝を結んだという人は、ここへ戻って来て再びこの松を見たことであろうか。
【補記】「結び松」は有間皇子の故事に因む。次の歌も同様。
岩代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ(万2-144)
【通釈】岩代の野中に立っている結び松よ、お前のように私の心にも結び目ができてしまってほどけず、昔のことがしきりと思われる。
長忌寸意吉麻呂の詔に応ふる歌
大宮の内まで聞こゆ
【通釈】宮殿の中まで聞こえる。網を引こうと、網子を指揮する漁師の呼び声が。
【語釈】◇大宮 天皇の御殿。ここでは難波宮を指す。◇網子ととのふる 地引き網を引く人々を指揮する。
【補記】文武三年(699)春の難波行幸の折の作と考えられている。
長忌寸奥麻呂の歌
苦しくも降り来る雨か
【通釈】なんと辛くも降って来る雨であることか。三輪の崎の狭野のあたりに家があるわけでもないのに。
【語釈】◇神の崎 和歌山県新宮市の三輪の崎。◇狭野の渡り 今の新宮港あたり。「渡り」は渡し場。◇家もあらなくに 濡れた衣を乾かせるような家がないことを歎く。
【主な派生歌】
駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕暮(*藤原定家[新古今])
宿もがな佐野のわたりのさのみやはぬれてもゆかむ春雨の比(*源家長[新拾遺])
大宝元年
【通釈】風莫の浜の白波はむなしくここに寄せて来る。見る人もいないのに。
【語釈】◇風莫の浜 未詳だが、一つ前の歌に詠まれた黒牛潟と同一地と見られる。和歌山県海南市、和歌浦湾の浜であろう。◇見る人なしに 自分以外には見る人もなしに。「ま幸(さき)くあらばまた還り見む」と歌に詠み、近くの藤白で処刑された有間皇子に思いを馳せるか。
【補記】行幸歌群十三首の一首。左注に「右一首山上臣憶良類聚歌林曰 長忌寸意吉麻呂應詔作此歌」とある。行幸の際、詔に応じて作った歌。
長忌寸意吉麻呂の歌
さし鍋に湯沸かせ子ども
【通釈】柄のついた鍋に湯を沸かしなさい、皆さん。櫟津の檜橋からやって来る狐に湯を浴びせよう。
【語釈】◇櫟津 奈良県大和郡山市。津は川の船着場。「櫃」と「川」を詠み込む。◇檜橋 檜で造った橋。「はし(箸)」を詠み込む。◇来む 狐の鳴き声を詠み込む。
【補記】左注に次のように制作事情を説明する。「上の歌には次のような伝えがある。あるとき人々が集まって宴をした。夜がすっかり更けた頃、狐の声が聞えた。人々は奥麻呂に『ここにあるさしなべ・櫃・狐の声・川・橋などの物の名をよみ込んで歌をつくってみろよ』と誘ったところ、奥麻呂はただちにこの歌を詠み上げた、と」。
【通釈】お宅の蓮はなんと立派でしょう。蓮の葉とは、こういうのを言うのでしょう。それに比べれば、この意吉麻呂の家にある物は芋の葉にすぎないでしょう。
【補記】蓮と芋と、葉の形はよく似ている。「うも」に「いも」を掛け、他家の妻と自家の妻を比べて戯れた歌かとも言う。
双六の
【通釈】人間の目なら二つまでだが、一・二の目ばかりでない、五・六・三・四の目さえあるよ、双六の賽には。
【補記】「双六」とは、「室内遊戯の一。二人が木製の盤を隔てて対坐し、黒白の駒石各十二個を自陣に並べ、別に二個の賽を交互に振り出して、その出た目の数だけ駒石を送り、早く敵陣に入ったものを勝ちとする」(岩波古語辞典)。飛鳥時代以前に中国から伝来して流行した。
白鷺の木を
池神の力士舞かも白鷺の
【通釈】池神の力士舞なのだろうか。白鷺が鉾をくわえて飛び渡っている。
【語釈】◇池神の力士舞 池神は地名か。あるいは池の神。力士舞は金剛力士の扮装をして舞う中国伝来の舞楽。白鷺が長い木の枝をくわえて飛ぶさまから、鉾を持って舞う姿を連想した。
更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日