Alternative Views》 2001年3月20日、4月15日

東夷のローマン体2――キリル文字とギリシア文字

2001年の春彼岸になって、ようやくβ版キリル文字とギリシア文字の字形を作り終えることができました。どういう理由で《この字形》になったのか、明確に理由があってやったことを作業メモとして残しておきます。メモにない事柄でも、何がしかの考えがあってやったことが、あったかもしれません。

内田明 <uchida@happy.email.ne.jp>

全般

JIS X 0208:1997 のレパートリに含まれるキリル文字とギリシア文字は、日本語テキストの一般的な書き手からは、数式等に出現する記号としてのみ利用されるものだと思われているようです。特にギリシア文字において、多くの(すべての?)0208フォントが小文字をイタリック体で実装している点に、《ギリシア文字=数学記号》説が色濃く滲み出ています。

これらが“全角”で実装されているからテキストに用いないのか、テキストに用いたいという需要がないから“プロポーショナル”(あるいは“半角”)のフォントとして実装しないのかは判りません。けれども、JIS X 0208:1997 と 0213:2000 の規格票を見る限り、各々のキリル文字やギリシア文字は、ISO/IEC 10646 との対照において、ロシア語テキストを記述するキリル文字やギリシア語テキストを記述するギリシア文字に対応することになっていますから、《ギリシア文字=数学記号》とのみ捉えるのは早計というものでしょう。

また、0213に収録されている文字を見ると、(アクセント記号も別個に存在するという点を含めて考えれば)現代ロシア語や現代ギリシア語を記述するのに十分なものであり、日本語とロシア語が混じった文を漢字仮名キリル文字交じりで記したり、日本語とギリシア語が混じった文を漢字仮名ギリシア文字交じりで記したりするのに便利です。そこで、キリル文字やギリシア文字を、ラテン文字と同じようにテキストを組める書体にしようと思いました。

テキスト用の書体にするのと同時に、できればラテン文字類と同じデザイン原理を貫徹しようとも考えました。ピョートル大帝によって西欧系ラテン文字の書風を導入されたキリル文字がロシアのキリル文字の字体だそうですから、ラテン文字と同じデザイン原理でキリル文字等を設計することは、不自然なことではないはずです。NHKの語学テキスト等を見ても、Times系の書体でロシア語が印刷されていたりします。ギリシア文字についても、流通しているフリーフォント等を眺めると、大文字がTimes系であることが多いようで、これまたラテン文字に似せることが不自然ではないでしょう。

まずは古典に当たろうと思い、活字の歴史に触れた書物を当たった結果、“ラテン文字の書体設計に大きな足跡を残しているボドニやエリック・ギルが手がけたキリル文字やギリシア文字があった”ことが判りました。

ボドニのギリシア文字については、片塩二朗『活字に憑かれた男たち』(朗文堂 ISBN4-947613-48-3)に数語分の写真があるのと、田中正明『ボドニ物語』(印刷学会出版部、ISBN4-87085-156-3)に『活版術便覧』からの抜粋が掲げられているのを見ることができました。『ボドニ物語』には、キリル文字についても『活版術便覧』からのイタリック体の抜粋があり、例えば「Ж」が、鈴木一誌「文字の不安」(『ユリイカ』1998年5月号)に掲載された正体の「Ж」同様に、下側のテールが優雅に膨らんだ“ピョートルデザイン”であることが判ります。

ギルのギリシア文字は、小文字の草書性を排除することを主張する“パペチュア”書体一式を、河野三男『評伝活字とエリック・ギル』(朗文堂、ISBN4-947613-49-1)で見ることができました。デザイナーのエゴではなく印刷人と読書人との共同作業によって書物の形が決まる、という意味のギル自身の言葉に従うならば、ギリシア小文字をここまでモダンフェイス化してしまうことには慎重にならざるを得ないという気にさせられます。

ほんとうは古典の中でも、Kandata補完計画のラテン文字デザインのベースにした「Transitional Roman」期に用いられていたキリル文字書体やギリシア文字書体がどのようなものだったのかを知りたかったのですが、わたくしの生活圏では、全くアクセスできませんでした。

また、古典へのアクセスと同時に、現在流通している本文用書体をも数種類に渡って参考にしたかったのですが、わたくしがアクセスできた「アルファベット書体見本帳」の場合、ほとんどすべて、個々の書体のレパートリは US-ASCII 文字集合や、ISO Latin-1 文字集合になっており、なかなかキリル文字やギリシア文字の事例に触れることができません。

こうした状況において、キリル文字については、「ロシア語」フォントの見本をも掲げていた『欧文書体集 1488』(オーク出版サービス ISBN4-87246-034-0)において、Times Roman Russian、Caslon Russian、Russian Helveticaを眺めることができました。ギリシア文字に関しては、日本やアメリカで刊行されている書籍にしかアクセスできなかったためか、全く無視されていたり、数学等で用いる“Symbol”として掲げているケースがあるのを見かけるだけにとどまりました。どうも、ギリシア文字は、「It's greek to me」なものとしての扱いを受けているようです。

キリル文字

文字の歴史と言語の双方に関する記述がある、次の2冊を参照しました。

ギリシア文字

正体の非サンセリフ系書体で本文が印刷されている現代ギリシア語の入門書である、次の2冊を参照しました。どちらも同じ写研が組んだテキストであるにも関わらず、後者のギリシア文字のデザインが、フリーフォントか自作フォントではないかと思われるようなディテイルを持っているあたりが興味深く感じられました。

各論的

Жとж

ありがちな和文フォントでは、上側の斜線が、「f」の上部に似た感じのデザインになっています。ピョートル大帝が製作させた“民間アルファベット”のデザインに従うならば、確かに上の斜線は“フックつき”のカーブ、下の斜線は外側に膨らんだカーブに作るべきなのでしょう。

ここでは、Times風のフリー“ロシア語”フォント等の解釈に従い、「K」の字を2つ背中合わせにしたようなデザインにしました。

φとψ

和文中での使用目的を考えればφは「直径」を示す記号として用いられる頻度が最も高いのであろうと想像されましたが、上述の入門書がひと筆で描けるデザインの字形(直径を示すには不向き)を選んでいるので、そちらに従いました。ひと筆で描けるφの字形をψと混同しているフォントもあるようなので、注意が必要です。