さようなら、宮崎駿。

miwa@naucon.org じょばんに

 そろそろ書くのを終りにしようかと思う。もう終りにしようと思った理由はいろいろあるけれど、結局どれも個人的なことだと思うのでここでは書かない。それより好きなことを書こうと思う。自分が思いきり好きな作品のことを。

「風の谷のナウシカ」(1984年)
 僕が文字通り転んだ作品。今でもその衝撃をよく覚えている。出会いはテレビ放映だった。ビデオに録画したものを、放映の次の日から3日連続、早朝に起きては学校に行く前に見続けてしまうほどの衝撃だった。
 一小国の可憐な姫ナウシカが見せる行動、その表情はまるで女神だった。ラストでは自らの身を投げ出して王蟲と向き合う、その芯の強さに感動して胸が震えた。宮崎さんは散々悩んだようだが、通俗的なカタルシスは僕を捉えて離さなかった。自己犠牲の美化だとかなんとか言われようが、あれを見て感動しないわけがない。何より表面的な男女の恋愛感情や悲壮的な義務感ではなく、ただ蟲のために、後先考えずに命を投げ出そうとする彼女のめちゃくちゃさかげんに、すっかりまいってしまったのだ。
 若干16歳の無垢で真直な少女に全てを負わせ、何のてらいもなく真面目な話を描いてしまった「風の谷のナウシカ」は、今後も僕の中でずっと輝き続けるだろう。

「天空の城ラピュタ」(1986年)
 「風の谷のナウシカ」の興奮冷めやらぬうちに初めて劇場で観た作品。これもめちゃくちゃはまった。同時上映のはずの「名探偵ホームズ」のことは何一つ覚えていない。それはべたべただけど、本来物語が持つべき見せ場がたくさん詰まっていた。
 計算された場面作りからくるスピード感と音楽との一体感。まず冒頭がいい。この冒頭は、その他の宮崎さんの作品よりも抜きん出て秀逸だ。飛行船の襲撃から少女がか細い悲鳴をあげながら雲間に落ちていくまで、何の前振りもなしに走りに走る。そして一転古めかしいタイトルが入り、続いて古代絵巻物風に飛行船や空飛ぶ島が姿を見せる。そして落下する少女の胸元でスパークする飛行石。音楽ともあいまって、これから始まる冒険に胸が高鳴っていく。
 物語半ば。シータを要塞から救い出すシーン。少年は少女の名を叫び、少女は身の全てを少年に委ねる。そんな惨劇の中で虚をつくかのようにロボットと少女が向き合うシーンが入る。やさしく手をさしのべながら崩れていくロボット。涙をこぼすシータ。たったあれだけの描写で言葉に表せないほどの想いの交流が見える。
 ラスト。少女は少女であることを捨て、自分の運命に決着をつけようとする。飛行石がなくとも、自らが亡びようとも、目の前の一人の少年と一緒にいることを選ぶのだった。
 確かにこんなの今じゃ古すぎると言われるかもしれない。けれどこの2時間に、僕は宮崎さんの冒険活劇に対する気合いのほとばしりを見る気がするのだ。

「となりのトトロ」(1988年)
 実は。見終った直後はそれほど思い入れはなかった。それまでの作品が2時間近いものだったので、この90分に満たない作品を何処となく物足りなく思っていた。それに「トトロトトロ」と騒ぐ年齢でもなかったし、かといって郷愁をもって見られるものでもなかった。
 そういう僕が。大楠を見上げるシーンに無邪気に憧れと畏敬を持ったり、サツキとメイが雨の夜のバス停でお父さんの帰りを待つ、あの雰囲気にどきどきしたり、サツキが迷子になったメイを探し回るときの暮れていく夏の夕暮れの風景を見て懐かしく思ったりするのはなぜだろう。ほんとにとても不思議な気分にさせてくれる。
 しかし。謎は氷解する。たまたまこの原稿を書くために渦高く積み上がった 資料の山からロマンアルバムを引っ張りだしてきて、宮崎さんのインタビュー記事をぱらぱらと見ていたら、『となりのトトロ』では最後にこう締めくくられていたのだ。「作っていて本当に幸せだった作品です。」僕はこれを読んで驚き、そして涙がこぼれそうになった。自分の作った作品に対して滅多に肯定的な批評をしないひとだけに、その想いのほどはどれほどのものだったのだろうか。きっとこの不思議な気分はその宮崎さんの想いの深さからくるものなのだろう。

漫画「風の谷のナウシカ」(1982年〜1994年)
 人生でおそらく二度とこれほどまでの漫画には出会わないだろう作品。巡り合えたことは幸福としかいいようがない。「風の谷のナウシカ」に関して言えば言葉の尽きるところがない。僕の中でこの作品が決定的に思えるのは、ナウシカ自身が一つの答えを出したことにある。墓所を壊してしまったナウシカ。どちらかに決められないことを彼女は決めてしまった。しかも真実は胸のうちに抱いたまま。
 宮崎さんは、連載当初「ナウシカのこと」という寄稿の中で「なんとかしてこの少女に、解放と平和な日々へたどりついてもらいたいと願っている」、また最後の連載再開直前にはエンディングについて「ナウシカに、お前子供産めよっていうひとがいてね、うん、と答えるところで終りたいと思っているんです」と語っていた。ナウシカは宮崎さん自身の中から生み出されながらも、きっと僕らファンの誰よりもナウシカのことを好きだったに違いない。でも、それが決して彼女を幸福にしないだろうことはわかっていながら、彼女に一つの決断をさせた。「いのちは闇の中のまたたく光だ」と言い放って。
 おそらく彼女はあのあと殺されてもおかしくないだろう。あの最終回を見るまでは、物憂げに「生きねば…」とつぶやくような彼女ではなく、解放の笑顔に満ちた彼女が見たかった。でも今はあれでよかったのだと思える。彼女の決断によって、ナウシカは僕の中で、女神ではなく一人の人間としての実像を結ぶことができたように思うから。ずっとナウシカを近くに感じることができたから。最後まで読めてほんとに幸せでした。

 「生きることは変わることだ」とナウシカは言った。宮崎さんも変わり、僕も変わった。でもある時期素晴らしい作品に出会ったという事実は変わらないと思う。本当によかったと思う。感謝しています。


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