さよなら宮崎駿。

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 初めてそれに出会ったのは、たぶん、幼稚園くらいのころ。父親の自転車に二人乗りして隣町の映画館まで見にいったときだ。
「長靴をはいた猫」
そのころは、誰が作ってるかなんて全然興味なかった。ただ、漫画映画って面白いもんだ、と、そういう思いだけだった。お姫さまを助けて、悪い魔物を朝日でやっつける、それだけで楽しかった。

映画の帰りに自転車の後輪に足を突っ込んで怪我をし、思い出深い映画行きとなったのだが、それは別の話。

 次に出会ったのは小学生高学年のころだ。
「ルパン3世」
シリーズ前半と後半では全然作りが違う。顔も話も急に変わった。でも、それがなぜかなんてわかる歳じゃなかった。後半のほうが、なんだかしかけが面白くてどたばたで楽しかった。何のせいかもしらず、ただじっとみていた。ルパンは、何回も何回も再放送してたのだが、飽きずに毎回見ていたものだ。

 次は中学生のころ。テレビ離れが少しづつ進む年ごろ。NHKで漫画をやるなんて…と意外に思ってチャンネルを合わせたのが
「未来少年コナン」
でも1話を見てつまらないと思った。SFじゃないと思ったんだ。SFかぶれだった。コナンの良さが1話を見ただけではわからなかった。2カ月くらいたって、もう一度チャンネルを合わせた。面白かった。のめり込んだ。愕然とした。なんでこんな面白いもの見逃してたのだろう。後悔した。でも、ビデオなんてなかった。ひたすら、必死に放送時間を待った。天に再放送を祈った。そしてコナンは終わった。大団円は素晴らしかった。しばらく経った後、再放送が始まった。いるかどうかも知らぬ神に感謝しつつ全部みた。ああ、こういう話だったのか。感動した。アニメとはこんな面白くできるものだったのか。

ミヤザキとかいう奴が作るものは面白いらしい、そう認知したのもこのころではなかったかと思う。

「カリオストロの城」「風の谷のナウシカ」
このころはテレビも持ってなかった。雑誌も読まなかった。もちろん映画封切りには行かなかった。しかし、それでもいろいろ機会はある。ミニ上映会やら大学祭やら友だちのビデオやらで偶然に出くわした。驚いた。どこでみても画面には「ミヤザキ」的な記号であふれ返り、僕にメッセージを送ってきてた。ああ、やっぱり僕はミヤザキが好きだったんだ。アニメが好きだったんだ。今でもミヤザキはアニメを作っているんだ。そう思った。

 僕はとうとう映画館に足を運ぶ。
「天空の城ラピュタ」
映画館でみるミヤザキはすごかった。画面一杯にミヤザキがひろがってた。僕は食い入るようにみてた。音もすごかった。目も耳も幸せを感じてた。

 ミヤザキは映画館へ行けば見ることが出来る、とおぼえたのはこれからだ。同じように学習した人間がたくさんいるはずだ。僕らはミヤザキに渇望していた。ミヤザキを求めた。いつもミヤザキの次を待っていた。
 同じころ、売るほうも気がついたらしい。ミヤザキにやらせれば売れる。ミヤザキの顔が出るようになった。ミヤザキはブランドになった。

 そこからあとは、誰でも知っている話だ。

 映画を作る毎にミヤザキの人気は上がった。2年も待てばミヤザキの映画が見られた。ミヤザキの映画が出るたびに映画館へ通った。好きだった。面白かった。嬉しかった。いつでもミヤザキの映画はミヤザキだった。

そして、今。

 結局ミヤザキはアニメを生み出すプロの職人だった。でもミヤザキは、それ以上のことをしようとしたんだと思う。

ミヤザキはあとに続く人を育てたかった。
…多分育たなかったけど。
ミヤザキはアニメを作る工場を築いた。
…多分残らないだろうけど。
ミヤザキはアニメを美術館に飾りたかった。
…多分…。あの三鷹市じゃあ…。

ミヤザキはアニメで夢をみて、アニメの夢をみた。でも、アニメは夢だったのかもしれない。ミヤザキのあとにミヤザキはない。それでいいんだと思う。ミヤザキのおかげで僕はアニメが好きだ。ここに好きな自分がいるぞ、という声はミヤザキには届かないかもしれない。でも僕は言いたいのだ。

僕は ミヤザキのアニメが好きだ。
ありがとう ミヤザキ。
バイバイ ミヤザキ。
さよなら 宮崎駿。


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