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X1/9の資料 > X1/9の歴史


その歴史[洋書翻訳編]
FIAT X1/9 Super profile Graham Robson著
Runabout magazine vol.19より

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 これはわたしがgroup Runaboutのクラブ誌であるclub magazine RUNABOUTで書いた内容のものです。時期的には昨年の秋発行のもので、あとで見てこれはおかしいと気が付いたものは内容を訂正しています。ではさっそく...お粗末であるかもしれないけど、私なりにまとめたX1/9開発当時からのいきさつを少し書いて見たいと思います。

その時代背景

 1960年代に入り、FIATはそれまでのRR式、コンパクトボディの600*1 ではボディやエンジンのキャパシティが小さいと感じてきた。そこで、1965年をめどに600より少し大きなモデルを造り、世代交代することを決める。こうして開発されたのが、Tipo100Gであり、1964年5月、850として発表された。翌年、この850にはクーペとスパイダー*2 が加えられる。セダンと同じホイルベース上に載るそのボディはクーペが社内デザイン、スパイダーのその素晴らしく優雅なデザインはあのカッロツェリア・ベルトーネによるもの(チーフデザイナーはGiorgio Giugiaro)だった。1965年から1973年まで、このオープン2シーターのBertoneは主に北米向けに輸出され、結果13万2536台もの大量生産を記録した。

 その間、FIATとしては今までにないFWD(全輪駆動)への挑戦をしていた。FWDは過去に何度か試みたが(Tipo102)、結局コストがかかり信頼性に欠けるため実現しなかった。ダンテ・ジアコーサ率いる開発チームはエンジンをギアボックスごと横置きするという手法を考える。これなら、天地方向だけでなく前後方向の寸法も、ミニに比べて短くすることができた。当然幅は広くなってしまうが、それでも、ギアボックスの小型化、トレッドの拡張などで可能なことがわかった。これが世に言うジア・コーサ式!

 とは言え、当時社長であったビットリオ・バレッタ*3 はこのモデルをいきなりFIATの市販車として発表するのはリスクが大きいと考え、いわばテストをかねてアウトビアンキ・ブランド*4 で販売することを決定した。そして、開発コードTipo109のこのFF車は1964年半ばアウトビアンキ・プリムラ*5 の名でデビューしたのだ。

 続いてジアコーサは同じメカニズムでFIATブランドモデルの開発に出る。X1/1という、それまでと違った開発コードを与えられたこのモデルはプリムラの1089ccエンジンに対し1116ccから最終的に1290ccというサイズのSOHC方式をとり、しかもカムシャフトの駆動には124のDOHCエンジンと同じコグド・ベルトを使用していた。(それまではOHVが一般)さらに足回りはコイルを用いたマクファーソンストラット、リアはウィッシュボーン+横置きリーフの組み合わせによる独立懸架へと進化した。

【1969年3月】X1/1は128としてデビューし、その2年後、850クーペの後継者的位置づけで128スポルト・クーペ*6 を発表する。社内デザインによるクーペはホイルベースを2223mmとセダンのそれ(2448mm)より大幅に縮められており、ボディも小柄で軽快だった。1116ccエンジンは64hpにパワーパップされたほか、新たに1290cc75hpエンジンも設定された。またセダンのボディにこの1290ccエンジン(ただし67hp)を搭載した128ラリー*7 も追加される。

 ここまでの流れを見れば、皆さんもおのずと察しがつくであろう。そう、850Spiderに乗るスポーツカー好きの若者はしばらくはそれで満足だったが、新しい128ベースの2シータースポーツをだれもが欲しがったのだよ明智君(古いか・・・)

 X1/1からかなり遅れて開発がスタートしたX1/9プロジェクトはまさにこのような流れの中で始められたが、けしてこれが初めてではなかった。(ここが一般の解説書とは違うところ)あの850SpiderをデザインしたBertoneは数々のニューモデルが発表される中、FIATとのつながりを常に意識していた。従って、128セダンが発表される前に彼らは新しいFWDユニットでの“128Spider”の開発を1968-1969年ごろ始めていたのだ!!!

 しか〜〜〜っし!BMCのミニと同様、FWDのパワーユニットではボディーをスポーティーにすることは難しかったのだよ。マーコス・ミニなどを見れば一目瞭然。するとベルトーネはミッド・エンジンという冒険的なコンセプトを考え出してしまったのだ!

 Nuccio Bertoneはそれも面白いと考えた。なぜなら、Bertoneのデザイナーはランボルギーニ・ミウラ*8 やマルツァル*9 ですでにすばらしいMidShipデザインの車を生産していたし、それをより小さなスケール上で展開できることに魅力を感じていた。(ミウラで12気筒エンジンを横置きしたのはあまりにも無理があったことは確かだよ)

 MGのデザイナーを2.3年後にあっと驚かせるその手法はFWD車からエンジン、トランスミッション、基本的サスペンションをそのままシートの後ろに移植することだった。言うなればそれは、後のフェラーリ512やポルシェ917にも通ずるミドエンジンレイアウトであった。ベルトーネはとりあえず、その手法(MR)と128ベースの手法(FF)をFIATに提示したが、首脳陣は伝統的FIATの新しい標準であるFFモデルのほうに、好感をもったようだ。

 となると、Bertoneは世論の反応を見るためにスペシャルショーカーを発表する。これが我がクラブの名称ともなった“Runabout”というわけだ。FIATのミッドエンジン車として提案するこの車は2シーター・オープンボディーとして、大急ぎで開発が進められた。しかし、想定したエンジンはOHV903ccのAutobianchiA112用エンジンにすぎなかったのだよ。

【1969年11月】トリノショーで発表されたAutobianchi Runabout*10 はかなりの注目を集める。夢のようなフォルムのその車は2度と見ることのない走ることのできないショーカーだったのだよ。(しかしAutocar誌はエンジンが後ろにあることを完全に見落としていた;エンジンは載っていなかったとも聞く)

 たしかに、このドリームショーカーはBertoneが128のパワーユニットをこの車に置き換えるまでプロトタイプにとどまった。しかし、その案は当時のFIAT社長Giovanni Agnelli*11 によってすぐに現実のものとなった。新しいミッド・エンジンのコンセプトは850Spiderの後継車として正式にFIATに受け入れられたのだ。

 開発コードX1/9を名乗るこの車は北米の安全基準に合わせてボディーを設計することが必然だった。それはかなり難航したが結果的に余裕でクリアできる内容のものとなった。その製造を受け持つ当時のBertone工場はFIATのミラフォリオ工場の西、約5キロほど離れたトリノの郊外Grugliascoにあった。ボディプレス機やペイント室、組み立てラインなど、かなりの特殊化されたボディを大量生産することができた。そして、完成された車をFIATがテストし、世界中に販売する。おそらく、すべて車のボディにはBertoneのバッジが確認できるだろう。

【1971年11月】このような準備が着々と進んでいる中、FIATとBertoneはのトリノショーで彼らの全く知らない別の車が、開発中のX1/9に極似していることに驚くのである。問題の車はデ・トマソのブースより発表された、DeTomaso1600*12 でありカロツェリア・ギアのTomTjardaによってデザインされたものだった。

 結局、それらが似ているのは偶然の一致ではないことがわかる。DeTomasoの歴史家Wallace Wyssによれば、彼らが1年はやく発表した車はイタリアの自動車雑誌に載った新しいベルトーネ車のデザインスケッチ(盗撮か?)をただ参照しただけだと。

 デ・トマソのプロジェクトはRS1600ラリーに搭載されるフォードBDAユニット(16バルブ/ツインカム)を同じようにシートの後ろに横置きにするというものだった。また、別の見方としてTomTjardaの開発を助けるためベルトーネのエンジニアが裏で仕事したのではないかともうわさされる。デ・トマソはその後そのプロジェクトを実際に市販車に移すことはなく、そのプロトタイプカーは完全に消えてしまった。

*1 開発コードTipo100。ダンテジアコーサは同じモデルを異なる駆動方式;、RR(Tipo100), FF(Tipo102), FR(Tipo103)で進めていた


*2 当時ベルトーネのチーフデザイナージウジアーロによる850スパイダー

 

*3 1945年FIAT創設者ジャバンニが亡くなった後を継ぐ、孫のジャバンニ・アニエッリが後継ぎとして成熟するまでの中継ぎとして采配をふるった。もとは会計士

 

*4 アウトビアンキは1955年経営不振に陥っていたビアンキ社(1899年創立)にフィアットとタイヤ・メーカーのピレリが援助することで組織された会社で、いわばFIATの子会社的存在。


*5 Autobianchi Primula 128のパイロットモデルであるこの車はFIATの大規模な横置きエンジン開発プロジェクトの結果であり、最終的にはX1/9プロジェクトにも深くかかわりのあるモデルである。


*6 128 Coupe ボディは850クーペと同じ社内デザインによる。1290cc75hpのエンジンはX1/9とほぼ同じ。

 


*7 128 Rally 1971年スポルトクーぺとともに追加されたモデル

 

 


*8 Lamborghini MIURA 1966


*9 Lamborghini MARZAL 1967


Bertone SHAKE 128のパワーユニットを使ったいわば、X1/9用テスト車?

 


*10 Autobianchi Runabout


*11 Giovanni Agnell 右は祖父のジョバンニ。FIATの初代社長。この写真は1951年当時、ジャンニは30歳。

 


*12 DeTomaso1600 洋書を読んでもまだ謎ではある。

 X1/9プロジェクト

 FIATによって公式に採用されたミッド・エンジン・レイアウトはプロジェクト名“X1/9”として進められ、生産体制に移ってからも同じ名で呼ばれた。最近のフィアット車は124、128のように呼ばれていたたが、このコードネームのことはジアコーサ氏の自叙伝が発表されるまで明らかにされなかったことである。X1/1が128で、X1/2がA112、X1/3は130、X1/4は127、さらに加えるなら127のパイロットモデルはA112だったのだよ。知ってました? もう少し教えちゃいますと後述のランチア・モンテカルロははじめX1/8として開発が進められ途中X1/9のために中止。その後X1/20として開発されたんです。 最後にX1/30がFiat 138。つまりリトモ&ストラダらしいですよ。

 生産モデルでは128クーペよりそのエンジン・トランスミッションを移植した。1290cc/75hpのパワーユニットはFWD用に開発されため、カウンターフロー式でマニフォールドはイン・アウトとも後側に位置され、スペース的に有利と言えた。意外にも知られていない事実はそのエンジンがプラグメンテナンスのため128と比べると11度後ろに傾けられていたことだ。そして、そのディストリビューターは128の位置から作業性を考慮しカムシャフト先端へと変更された。また、生産化直前になってギアレシオはファイナルは同じだがトップギアのみが、1.037:1から、0.959:1へと変更されている。これは空力的に優れたボディのおかげだ。(当時カーグラフィック記者のポール・フレール氏によれば、数カ月前のプロトタイプを運転したときレブカウンターの針はずっとレッドに入りっぱなしだったと、記している)また、大きく開くエンジンフードはメンテナンスに十分な大きさだった。

 さらに特筆すべき点は小さなボディに対しラゲッジスペースが豊富なことだ。それは、スペアタイヤをフロントに置かず助手席とエンジンルームの間に置き、さらにガソリンタンクをも運転席の後に配置したことで可能にした。結果、フロントボンネットの下に脱着式のルーフを格納することができた。しかも、エンジンのさらに後に十分なトランクスペースを確保することができたのだ。

 デザインの要は何といってもそのボディ構造にあった。極めて強靱なフロアパンをもつそのボディは、それだけでボディ全体の剛性を受け持っている。そのため、ルーフパネルを脱着可能にし、しかも、ボンネット、左右のリトラクタブルヘッドライト、エンジンフード、トランクフード、もちろん2枚のドアを開閉可能にしている。強度の秘密はフロントに1枚、リアに2枚のバルクヘッドが大きな役割をはたしている。そしてフロントのそれが、前のサスペンションを支え、リアのそれはエンジン・トランスミッション・サスペンションを支え、しかもロールバーのサポートにもなっている。サブフレームは一個所もない。フロントにエンジンをもたないためその安全対策は大変なものだった。したがって、車重は128クーペより65Kgも重い880kgになってしまった。

 インテリアに関して、シートはリクライニングしなかった。それはスペアタイヤとガソリンタンクをシートの後に配置したため、十分なスペースが確保できなかったからだが、かわりに、そのタイヤを取りだすため前に倒すことだけはできた。空調はアメリカ向けにオプションでエアコンも開発された。ドライビングポジションは極めて良好で、特にセンタートンネル上に垂直にたった、ギアレバーとその後のハンドブレーキのレイアウトはFWDの車では味わえないものだ。

 メーターパネルは三日月型の未来的なもので速度計、回転計、水温計、油圧計、が配置される。(初期のものは針の根元がかくれて見にくい。なんとも時代を先行しすぎたデザインと感じるのだよ)室内で唯一の荷物スペースは助手席のひざ元にグローブボックスがあるだけだが。それでもないよりましだな。

 こうしてX1/9の生産体制は整った。しかし、1972年トリノショーには姿を見せなかった。当時トリノショーのFIATブースに立ったニューモデルは126と132サルーンだ。この2台の大衆車の方が、イタリアの国内マーケットで商業上重要だったことは簡単に推測がつくであろう。

1998. 7. 4 Uproad

 

 


驚異のリアサスペンション 上からの図

Vの字に開いたロアアームのひんじが同軸上にいことに注目!!さらにトーコントロールを可能にしたピロボール・リンク!

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