ある日突然に  
 
 
きのしたやすこ


新雪の下だより No.1 より
1973.1.8 発行

 タルセンの一隅にて

 四十五年の五月のことでした。あす引っ越しをするという、その前の日だったのです。荷造りをする。整理をする。ほんとに戦場みたい、文字どおり足の踏み場もない有り様でした。
 たまたま買い物に出て、タルセン(ショッピングセンター)を通り抜けているときです。何気なく、ふと気がむくままに、ペットセンターに立ち寄ったのです。
 小鳥やリスや白ネズミ、それに可愛いい子犬など、所せましと置かれている狭い店なのですが、そのなかの一つに目が吸い寄せられてしまったのです。
 シバ犬。血統書つき。二万円也。こんな紙がそのオリに貼ってありました。その中に、目をパッチリあけた、何とも可愛い、茶色の子犬が一匹いるのでした。指をすき間から入れて相手をすると、ころころところがりよってきて、舌でペロペロなめ、まだ歯の出揃わない歯ぐきで、シコシコとかむのでした。
 なんと可愛い、子犬の乳臭いにおいと甘い感触。私はそこを動けなくなってしまいました。
 けげんな顔をして寄ってきた店の人に、
「ちょっと待って下さいね。この子犬売らないで。すぐに来ますからね」
 というと、私は慌てて家へ帰りました。

 意気投合

 まえから、犬がほしいと考えていました。
 それに、こんど転宅をしたら、仕事場で私は一人住まいになる。淋しい。それに不用心だ。何とかしなくてはいけない。それに、ちょうど思いがけないお金が入ったところだ。あの子犬を買えるだけのお金が。そんなことを考えながら、急いで家へ帰りました。
 なっちゃん、ふゆちゃん、それにカァクンと私。四人で相談をしました。
 みんな犬が大好きな上に、何か事あれかしと待っている連中、
「大賛成!」 「すぐ見にいこう!」 「いや、はやく買ってこようよ」
 など、口々にいうのでした。
 明日引っ越しという前の日に、私たち四人の女性軍は、打ち揃って、タルセン・ペットセンターへと押し出したのでありました。
 時を移さずみんなを引き連れてきた私をみて、店の人はびっくりしました。そして、先の子犬をその小屋から出してくれたのです。
 すると、どうです。まるで待ち受けていたように、その子犬は私たちのほうへころがってきて、身体をすりよせるのです。まるでこうなるのが、サダメであったかのように。
 かくて、私たち一家とこの子犬とは、最高に意気投合し、ついに離れられない仲となったのでした。

 ケン家族となる

 お互い奪い合うように、抱きながら帰ってきました。引っ越しの準備どころではありません。やれ箱だ、やれ敷物だと大騒ぎ。チョロチョロ走りまわっては、あちらにオシッコ、こちらにウンコをしてしまう子犬に、全員大騒動でした。
 しかし、あす引っ越しの予定は動かせません。えらいことになったなあ。ちょっぴり後悔もまじえながら、それでも、可愛くて可愛くて、この子はここへくる運命だったのだ、と何度も自分の心にいいきかせたものでした。
 夜になって、仕事にいっていた先生が帰ってきました。
「なにィ。コウヌゥ? この大騒ぎのなかで、買って来たというのかぁ」
 あきらかに、先生はアキレガオで、その声のなかには非難の気持ちがこもっていました。「何もよりによって今日このなかで買ってこなくても、もう少し落ち着いてから、買ってくればいいじゃないか」
 ごもっとも。ごもっとも。けれど、あのとき、あの出会い、どうして連れて帰らずにいられるでしょう。
「この子犬はね、すばらしいいぬなのよ。明日になったら、もう売れてしまうかもしれないのよッ」
 これは、なっちゃん。
「いいよ、いいよ。わたしたちが世話するから。ねえ。いい子。いい子」
 これはふゆちゃん。
「そりゃあ、まあ、明日の今日だからとは、思ったんですけどね。こんなことに、なってしまったんですよ」
 これはカアクン。
 こもごも言い訳、弁解、反論を積み上げて、私立ち女軍はこの子犬を守ったのでした。
 それにしても、名前はどうする、というと、先生がいちばん熱心で、あれがいい、これがいいと一家五人の大討論。ついにケン・賢・犬ということで、ケンが誕生したのでした。


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