私の“東京大空襲”


      1945年(昭和20年)3月

 帝都(首都)東京上空はアメリカ軍重爆撃機B29にとって、ほとんど自由に飛行できる所となっていた。
 日本軍には、ほとんど飛行機も、それを飛ばす燃料もなく、たまに戦闘機が飛んできても、B29の後方銃器の威力の前に歯が立たなかった。高射砲は1万メートル上空を飛ぶB29に届かず、はるか下方で炸裂するのみであった。
 
 1944年11月マリアナ諸島がアメリカ軍の手中となってテニアン島からのB29の来襲が活発となり、特に45年2月に硫黄島の日本軍が玉砕(全滅)してからは、連日連夜の空襲で、ゲートルを巻いたまゝで、就寝するような状態であった。
 
 その頃私(昌衛)は、生まれ育った地である浅草区吉野町1ー2ー4(現在の台東区今戸1ー9)に父(惣一郎)と2人で住んでいた。
 母と4人の弟は2年近く前より、空襲を避けて埼玉県須影村(当時)に家を借りて疎開していた。
 
 東京府立航空工業学校(5年制の旧制中学)の3年生として在学中の15歳であった。中学生とはいえ「学徒動員令」で、3年生になった時から学校へは行かず、板橋区の「航空螺子」という会社へ毎日通っていて、“お国のため、日の丸と神風の鉢巻き”をしめて一生懸命に飛行機の部品を作っていた。当然授業は全くなかった。
 
 父は経済統制で、それまでの婦人靴製造業を続けることが出来なくなり、軍需関係の会社への勤務を余儀なくされていた。
 全ての物資は欠乏しており、特に食料品は窮乏の極に達していた。常に空腹で、飢餓状態であった。(ただ、このときは想像も出来なかったが、さらに厳しい食料不足は敗戦後に訪れた。)食事作りは主に私がやっていたのだが、どこで何を買って、何を作り、何を食べていたのか全く思い出せない。
 燃料も不自由していたのだが、マッチさえないときに我が家には何故かコークスが充分にあった。コークスは火力が非常に強いのだが、火をつけるまでがたいへんで、何回も失敗してしまう。やっとの思いで火が熾きて、火勢が強くなってきた頃に空襲警報が発令されて、水をかけて消してしまう。警報解除になって、また新規まき直しとなる。この2年間でなけなしの配給の米を、使う燃料がガスでも、薪でも、コークスでもそれぞれに最高においしく炊きあげる方法を編み出していた。


          3月9日(1945年・昭和20年)

 この夜も、いつものように空襲警報のサイレン。それが解除され2回目のサイレンが響いた。その時にはもう、B29の編隊が上空にあった。空襲警報も機能していなかったのだ。
 
 蒸気機関車が目の前を走って行くようなもの凄い音が上空から迫ってくる。爆弾が空気と擦れる音である。今までに何度も聞いている音だが、この時ほど大きな音は初めてである。咄嗟に目と耳に両手をあてがい、地面に突っ伏した。
直撃を予感し身を固くして震えた。「運命の一瞬」に爆発はなかった。先ほどの音は爆弾ではなく、焼夷弾だったのだ。ほっとした。立ち上がって道路へ出た。
 
 4〜5軒先の桜井さんの大きな家から高い火柱が上がっていた。そのあまりの大きさと、もの凄い火勢を見て恐怖で立ち竦んだ。見回すと遠く近く、そこら中が燃え上がっていた。
これはもう「逃げるしかない」と思い、何故か少し落ち着いてきた。
 父から言われ、ご自慢の高級自転車と羽根蒲団を前の学校の講堂と外塀との隙間に隠した。父から“これは絶対に手放すなよ”と云われた風呂敷包みを右手に、左手に何故かバケツをぶら下げて逃げた。
 
 隅田公園のラジオ塔前広場へ行った。
山谷堀が隅田川へ流れ込む辺り(注;図1・B)の広場に落ち着いた時はまだ、広い地域の所々に人がいる程度であった。「ここに居れば大丈夫」と当然の如く思った。しかし間もなく続々と人が押し寄せてきた。大きな荷物を背負ったり、リヤカーに荷物を積み上げたりして、集まりだした。これが後に「大変な事になる」原因の一つだった。
 広場は、いつの間にか満員電車のようなすし詰め状態になっていた。しだいに息が苦しくなるような圧迫感を感じるようになってきた。鉄兜を被っていて視界も悪く、下を向いて歯を食いしばり、圧迫に耐えていたので、ただの「過密状態」と思い込んでいたが、あまりの異常な圧迫感と人々の叫喚に、顔を上げて振り返ってみた。と、「横の帯状」になって人が燃え上がっていたのである。しかも、火の帯はこちらに向かって、7〜8mくらいまで迫ってきていた。
 正面に見えた女性の長い髪が、天に向かって逆だって燃え上がった。大きく口をいっぱいに開けたもの凄い形相で、声にもならず叫んでいた。身動きも出来ない状態でそれを見たとき、「もう駄目だ」と思った。
 それからさきは無我夢中だった。何かを判断して行動するというのではなく、全て反射的な動きであった。
 
 それまで抱えていた「大切な風呂敷包み」を手から放して、腕を上にあげた。思いもよらず体が少し動いた。荷物が落ちて隙間が出来、次の圧力が来るまでの僅かな時間に身を捩って、堤防の塀に手を掛けた。が、塀が高く、周りから押されているので上れない。次の瞬間、小さな子どもを胸に抱いて、塀を背にしゃがみこんでいた女性の肩に「すみません」と云って足をかけていた。両腕に力を込めた。体が浮き上がった。上れたのである。いま思うと、足をかけた肩を女性がぐいと持ち上げてくれたのかもしれない。登る途中、下を見たら女性の仰向いた顔は意外にも怒っている表情ではなく、むしろ微笑んでいたように見えた。幅40〜50pの堤防の上に四つん這いになりながら、心の中で深く詫びた。
 
 風速20mを遙かに超えているであろう強風に、吹き飛ばされそうだ。塀に必死にしがみついた。右の下は迫り来る火の海、左下は強風に荒れ騒ぐ隅田川の水面である。強弱のある風の合間を計らって、四つん這いのまゝ少しずつ前へ進んだ。ふと我に返って後ろを振り返ってみた。4〜5m後ろから同じような四つん這いで父がついて来るではないか。長い堤防の上は我々2人以外は誰もいなかった。“地図にあるとおり、広場から小さな橋を介して、半島状の陸地が出来ている。(便宜上、以下これを突堤という)幅10m位、長さ100m位の突堤で、その上は遊歩道になっており、両側に図2の欄干が出来ている。広場と突堤に囲まれた入江に面して、平和時にはボート乗り場があった。この突堤は昭和42年に取り壊されて、今は存在しない。”
堤防上を這って橋の斜め上(注;図1Gの位置)まで来た。下に見える橋(注;図1D)の上に人が何人も立っていた。
その人達の頭上をめがけて、スーパーマンのように水平の姿勢で飛び降りた。と云うより、競泳のスタートのように飛び込んだ。

 広場の橋の際(注;図1H)の辺りが大きく燃え上がっていたので、すでに橋の方へは誰も入ってくることが出来なくなっていた。そのため、突堤の上は比較的空いていた。突堤の中程(注;図1I)に腰をおろした。
 

     大切な荷物(小脇に抱えられる程度の小さな物)

 父が云った。「あの荷物はどうした?」
ぶっきらぼうに「ない」とだけ云った。
父はそれ以上何も云わなかった。
相当大事な物が入っていたのだろうと、今でも思っている。しかしそのことを父が存命のうちに、ついに聞いていない。
 仮にあの荷物をはじめから持っていなかったら、
持っていても、もっと早く離してしまっていたら。
最後まで大切に抱えていて、最後の最後に離したのでなかったら・・・
私は死んでいた。


   聖 天 炎 上

 150m位離れた、標高10mの小山の上にある「待乳山聖天」の、仏閣の炎上が激しくなってきた。強い熱風に煽られ息も出来ない。もの凄い煙につつまれ、目や喉が苦しい。火勢がますます強くなり、本堂の太い柱や梁が熾となって、炎をあげながらコンクリート・ブロックくらいの大きさや、もっと大きい塊となって飛んでくる。堤防の欄干のコンクリートで出来た支柱(注;図2)の陰に蹲って、手に持った鉄兜で顔を覆っていたので直撃だけは避けられたが、破片や火の粉を全身に浴びた。隣にいた人は直撃され、顔中血だらけになっていた。強風に巻き上げられた川の水が、シャワーのように降りかかってくるときだけが唯一の救いであった。この熱風・炎熱・燻煙地獄はこれでもかとばかりに延々と続いた。
 「ホトケ」の建造物が、これ程までに苛酷に、残虐に人を苦しめたのである。どうやら焼け落ちてくれて、下火になったのは空が明るくなってからだった。
 
 今度は「寒波」である。冷たい強風と川からの水しぶきで、ガタガタ震えた。火に追われて川に入った人々を突堤の先端の方で引き上げていたが、その人達が次々と凍死して行くのである。
 
 煙で全く目を開けられなくなった父の腕を抱えて帰路に就いた。
「跨いで!跨いで!ほら、跨いで!」
私の声が次第に激しくなっていく。次々と跨ぐのは、死体なのである。
みんな真っ黒な炭状の棒杭となっている。長い「棒」の片方の端に赤茶けた鉄兜がごろりと転がっていれば大人の男性。
長い「棒」と短いそれが並んでいれば、母と子。 
 昨夜、立錐の余地もなく押し合って立っていた人々が、今は足の踏み場もないほどに転がっているのである。
 目が開かない父を連れてこの広場を渡りきるのは、長く辛い道程であった。
 
 今戸橋際の道路に出ると消防自動車が辛うじて赤茶けた骨組みを少し残し、ペチャンコになっていた。電柱(当時は木製)が焼けてなくなり、電線が地面の上にからみ合っていた。所々にビルの残骸のコンクリートがあるだけで、360°視界の及ぶ限り全て平らな焼け跡だった。油問屋だった所が、未だ炎を上げていたのが印象的だった。
 この晩、10万人以上が死んだ。
焼夷弾を使った、B29の大編隊による無差別絨毯爆撃である。
 
 我が家の焼け跡に辿り着くと、この期に及んで父が、「自転車と羽根蒲団を見てこい」と言う。
論外ではあるが、気休めを与えるため見に行った。講堂の針金入りの分厚い窓ガラスが熱で溶けて、ねじれ、大きなあめん棒状となり、折り重なって落ちていた。
 
 北千住から先は電車(東武線)が動いているらしいという話を聞いて、5kmの道をトボトボと歩いた。途中、級友の新井に会った。あとで聞いたところでは、「小田が泣いていた」と彼が云ったらしい。全身煤けて、目を開けられず、涙が出るし、鼻と喉が痛くて、ろくに話しも出来ない状態なのを見て、そう思ったのも無理もない話だ。
 
 北千住から何時間もかかって、やっと須影の家へ着いた。母の顔を見たとき、父はワッと泣き出した。
 打ちのめされ、疲れ果てた私たちが、暖をとるためや、湯を沸かすため、母はいろりに薪をぼんぼんくべてくれた。
「止めてくれ!」と怒鳴ってしまった。炎や煙が目や咽に辛かったのは勿論だが、それ以上に精神的に耐えられなかったのだ。うなされて、眠れない夜が長く続いた。
 
 死からの脱出をはじめ、全ての場面に於けるあまりにも非日常的な体験。踏台にした人に対する懺悔、等々が走馬灯のように浮かんでくる。
 焼き付いて離れないのは、断末魔の顔よりはむしろ、下から見上げた女性の、優しく、そして複雑な表情である。


羅災時の図・東京大空襲

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                        2003年3月9日
                            小 田 昌 衛

  ※ここに書いたのは、自分自身が実際に体験したことだけです。 
    伝聞や風聞は入っていません。
    従って極く限られた事象だけです。
  ※58年間、忘れようと努力してきたことです。
    記憶違いもあることと思います。
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