☆東京大空襲☆

                  
○東京大空襲
1945年3月10日未明、約300機のB29による下町地区を目標にした無差別爆撃は、人口過密地帯を火災地獄とさせ、羅災者は100万人を超え、10万人にもの尊い人命が失われた。3月10日を含め、東京は100回以上もの火の海にさらされた。市街地の6割を焼失し、687万人だった区部の人口は253万人に減少した。


1945年(昭和20年)
3月9日
22:30警戒警報発令、2機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去したと見せかけ、都民はホットした。

10日
00:08第1弾が投下された。
東部軍管区司令部はまだ気付いておらず、当然ながら空襲警報も鳴らない。

00:15空襲警報発令、それから約二時間半にわたって波状絨毯爆撃が行われた。

各機平均6トン以上の焼夷弾を搭載した344機のB29の大群が、房総半島沖合から単機または数機に分散して低高度で東京の下町に侵入した。

都民の虚をついて来襲したB29の大編隊は、低空からアルミの細片をばら撒いて日本軍の電波探知機を無能にし、機体を捉えたサーチライトには機銃掃射を浴びせかけた。

B29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40kuの周囲にナパーム製高性能焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。

その後から約100万発(2,000トン)もの油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン(高温・発火式)焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民には超低空のB−29から機銃掃射が浴びせられた。

折から風速30mの強風が吹き荒れて火勢を一層激しいものにし、火の玉のような火の粉が舞い踊り、強風に捲かれた炎が川面を舐めるように駆け抜け、直接戦争とは関係の無い一般市民は次第に狭まってくる火の壁の中を逃げまどいながら、性別も判らないような一塊の炭と化すまで焼き尽くされた。



悲惨!・東京大空襲
     浅草・花川戸付近で撮影されたとされる

犠牲者10万人のうち、 
無縁仏・行方不明者 約88,000人という説もある。


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