○太平洋戦争○
○太平洋戦争
第2次世界大戦の一環として、日本が米・英・中国などの連合国と戦った戦争。
戦時中の日本では「大東亜戦争」と公称。
満州事変(1931)、日中戦争(日華事変)(1937〜1945)の延長として日本が起こした。
1939 第2次世界大戦の勃発
日・独・伊のファシズム3国は結束を強める。
1940
日独伊三国同盟が成立。日本では対英米戦が目標とされる。
これに対し米国は連合国側に接近、日本の南進政策を阻止する姿勢を明らかにした。
1940年9月
日本は資源確保のため北部フランス領インドシナ(仏印)に進駐。
1941年4月
日米会談が始まるが、これは、
対ソ開戦……陸軍部内に根強い
日中戦争の収拾
対英米決戦
の3案のいずれを選ぶべきかを決するための時間稼ぎだった。
1941年7月
日本軍は南部仏印にも進駐。米国は態度を硬化させる。
1941年9月
日本政府は御前会議で対英・米・オランダ戦争の期日を決定。
米国も日本側からの攻撃を待ち、参戦の名義を得ることにした。
1941年10月
日本で東条英機内閣成立。
1941年11月26日 ハル・ノート
日米交渉最終段階で、米国国務長官C.ハルは、太平洋周辺地域各国の不可侵条約締結、
中国・仏印からの日本軍撤退、在重慶国民政府以外の中国政府の否認などを提案した文書(「ハル・ノート」)を示した。
1941年12月1日
ハル・ノートを最後通牒と見なした東条英機内閣は、御前会議で対米開戦を決定。
1941年12月8日 真珠湾攻撃
日本軍はハワイ島パール・ハーバー(真珠湾)軍港の奇襲攻撃に成功、米英蘭に宣戦布告。
また同日、フィリピンのダバオにも爆撃を行う。
1941年12月10日 マレー沖海戦
日本海軍の航空隊はマレー半島東方海上で、イギリス東洋艦隊の主力戦艦プリンス・オブ・ウェールズおよびレパルスを撃沈。
日本は南西太平洋の制海権を掌握し、マレー半島上陸開始。
開戦後約5ヵ月間に、日本軍は香港、マレー半島、フィリピン、ジャワ,ビルマ(ミャンマー)の各地を占領、優勢を誇 る。日本政府は、これら地域の豊かな資源で長期戦態勢は整ったと強調。
1942年2月
日本軍のシンガポール占領。
この直後、日本軍は反日運動に加わったとされる華人男性を連行し大量処刑(シンガポール華人虐殺)。
その人数は不明だが、日本側からは5000人、シンガポール側からは10万人という数字も出ている。
1942年3月9日
ジャワ島占領。
1942年5月7〜8日 珊瑚海(さんごかい)海戦
ニューギニア南岸のポート・モレスビー攻略を目指す日本海軍機動部隊は、米海軍機動部隊と戦い、
米大型空母レキシントンを沈めるが、日本の小型空母「翔鳳(しょうほう)」を失って攻略作戦を中止し、戦略的には敗北。
1942年6月5〜7日 ミッドウェー海戦
中部太平洋ミッドウェー島攻略に向かった日本海軍機動部隊が、待ち受けた米国海軍機動部隊と海空戦を繰り広げ、
日本艦隊は航空母艦4隻、兵員3500,飛行機200余機(全機)を失い、致命的な打撃を受けた。
この戦闘を境に太平洋戦線の主導権は米国に移り、戦局は連合国有利に転換。
1942年8月〜1943年2月 ガダルカナル戦
日米両軍はソロモン諸島南端ガダルカナル島を巡って激しい戦いを繰り広げる。
日本軍は作戦上で失敗、ソロモン海戦に敗れ、基地航空隊も激しく損耗。物資不足、マラリアの感染にも悩み、
日本軍は派遣部隊の3分の2、餓死者を含め約2万1000人を失った。 連合軍は総反攻の転機をつかむ。
1942年8月〜11月 ソロモン海戦
ソロモン諸島の日本軍は、延びきった輸送線を断たれて苦戦。
8月8日の第1次海戦では日本は米・豪連合軍の重巡洋艦4隻を撃沈。
8月24日の第2次では日本は空母「竜驤(りゅうじょう)」を 失う。
11月14日の第3次は消耗戦となって日本の輸送船団は打撃を受け、戦艦「霧島」などを失った。
1943年2月
日本軍、ガダルカナル島からの撤退。
1944年6月〜7月 サイパン島陥落
6月15日、米軍が上陸攻撃を開始。
この攻防戦の一環として6月19〜20日、マリアナ沖で日本海軍と米国機動艦隊が衝突(マリアナ沖海戦)。
日本は「大鳳(たいほう)」「翔鶴(しょうかく)」などの航空母艦や航空機の大半を失い、太平洋水域の制海権を喪失。
日本軍のほとんどが戦死する激戦の末、7月9日米軍はサイパン島を占領。
サイパン島陥失で米軍に日本本土空襲の基地を与えたことになり、東条内閣は総辞職。
1944年10月12〜15日 台湾沖航空戦
台湾にいた日本軍航空隊は、米軍レイテ島上陸支援のため沖縄を攻撃しながら南下していた米国機動部隊を集中攻撃、
2隻の巡洋艦を大破させるが、逆に日本機動部隊の航空戦力の大半を失う。
1944年10月23〜26日 レイテ湾海戦
フィリピンのレイテ島争奪をめぐって日米両国海軍がほとんど全力をあげて空前の大海戦を展開。
マッカーサー連合国軍南西太平洋方面司令官は、レイテ島確 保に成功。
日本艦隊は突入作戦に失敗し、巨艦「武蔵」をはじめ連合艦 隊の主力を失い、以後戦闘艦艇としての連合艦艇はなくなった。 またこの戦いで初めて神風特別攻撃隊が登場。
この頃から日本本土がサイパン島を基地とする米空軍の空襲を受けるようになる。
1945年2月19日〜3月26日 硫黄島作戦
第2次大戦の3大激戦の一つに数えられる(他の二つはスタ ーリングラードとエル・アラメイン)。
日本軍2万1000名の死守する硫黄島(小笠原諸島南方)に、 米軍第3、4、5海兵師団6万1000名が上陸開始。
約1ヵ月の激戦で日本軍の大部分は戦死、3月26日には残兵800名も突撃玉砕し、日本軍は全滅した。
米軍の死傷も甚大で死傷2万9000名を数えた。
1945年4月〜6月 沖縄戦
3月にグアム島から発進した約55万人の米軍大艦隊は、4月に沖縄本島中部西海岸に上陸し、
太平洋戦争で最初で最後の地上戦に突入。
日本側は、現地召集の防衛隊と学徒隊2万人余を加えた約10万の兵力を中心に応戦、
多数の住民を巻き込んで、3ヵ月に及ぶ戦闘が行われた。
日本海軍航空部隊は「菊水(きくすい)作戦」と呼ぶ特攻攻撃作戦を実行、4月6日の菊水一号作戦から6月22日の菊水十号作戦まで、特攻攻撃で2000人が戦死。これに呼応して陸 軍航空部隊も特攻攻撃を行い約1000人が戦死。
本島南端の摩文仁(まぶに)まで撤退した司令部壕で作戦を指揮した牛島満司令官が6月23日、最期まで戦えと命じて自決して、日本軍の組織的な抵抗は終わるが、沖縄の日本軍 が降伏調印したのは9月7日であった。
沖縄戦の犠牲者は日本軍9万人余、一般住民9万人余、米国軍1万3000人弱とされる。
沖縄戦では非戦闘員に対する配慮がなされず、正規軍より一般住民の犠牲の方が大きかった。
沖縄県民の犠牲者は計12万人以上と推定され、その中には「鉄血勤皇(てっけつきんのう)隊」とよばれた男子学徒隊、
「ひめゆり部隊」などの女子学徒隊の犠牲者も含まれる。精神的に退路を断たれた住民の集団自決、
日本軍によるスパイ取締りの名の下の住民虐殺、食料強奪、壕(ごう)追出しなどが相次いだ。
1945年4月7日〜8月17日 鈴木貫太郎内閣
終戦の密命を帯びて登場した鈴木首相はソ連を仲介とする終戦工作に失敗。
1945年7月26日 ポツダム宣言発表
米・英・中3ヵ国首脳名で日本に無条件降伏を要求。
1945年8月6日
米軍はウラン235型原子爆弾「リトル・ボーイ」(爆発力TNT火薬20キロトン相当)を広島市に投下、死者26万を超える 被害を出した。
1945年8月8日
ソ連は対日宣戦し、ポツダム宣言に参加。
1945年8月9日
米軍はプルトニウム239型原子爆弾「ファットマン」を長崎市の浦上地区に投下。市街の3分の1が焦土と化し、死傷者15万に及んだ。
1945年8月15日
鈴木貫太郎内閣はポツダム宣言を受諾し総辞職。
ここに日本は連合国に無条件降伏し、太平洋戦争は終結。
1945年9月2日
東京湾に入った米国戦艦ミズーリ号上で連合軍最高司令官マッカーサーと日本側外相重光葵との間で降伏文書の調印がな された。
☆東京大空襲☆→GO
☆東京大空襲・資料センター→GO
☆広島平和記念資料館☆→GO
☆長崎原爆資料館☆→GO