M107.火山噴火と社会の混乱

著者:近藤純正
火山の噴火は、周辺地域に大きな災害をもたらすのみならず、噴煙が成層圏 (高緯度で高度約8km以上、低緯度で高度約16km以上の大気圏)まで 吹き上げられるような大規模噴火では、世界の気候に影響を及ぼす。 本稿では火山噴火が及ぼす影響を知るため、それらの代表として、 火山の周辺地域に噴石・火山灰の堆積によって約80年にわたり 災害をもたらした1707年の富士宝永噴火、仙台伊達藩で人口の 約1/4の餓死者を出した天保の大飢饉(1836年)、1991年にフィリッピンの ピナトゥボ火山の噴火の2年後に平成の米騒動が起きた問題について要約した。 (完成:2023年2月27日)

本稿は自然をより正しく深く理解するための一般向け新刊書「身近な気象のふしぎ」 (東京大学出版会)の 第7章「火山噴火と冷夏」 について、補足の資料も加えた概要解説である。 より詳しい内容は新刊書をご覧下さい。

本ホームページに掲載の内容は著作物である。 内容(結果や方法、アイデアなど)の参考・利用 に際しては”近藤純正ホームページ”からの引用であることを明記のこと。

トップページへ 身近な気象の目次

更新記録
2023年2月18日:素案の作成
2023年2月27日:7.3節の後半部を修正


   目次
         7.1  はしがき
         7.2  凶作の気象原因比率の変遷
         7.3 宝永の噴火(1707年)、災害復旧に80年間
         7.4 コシグイーナ噴火(1835年)と天保の大飢饉
         7.5 ピナトゥボ噴火(1991年)と平成の米騒動
         まとめ
         文献

      謝辞
          本稿の作成にあたり防災科学技術研究所監事の佐藤 威博士にご協力いただいた。
          ここに厚く御礼申し上げる。           

7.1 はしがき

西暦1300年以後を調べてみると、干ばつ、水害、冷害などの異常気象で凶作・ 飢饉となり多くの餓死者が出ていた。江戸幕府が開かれ平和な時代になってからは、 森林保護・河川改修・灌漑により大規模な干ばつと洪水はなくなり、 現在は冷害のみが残っている。冷害は世界的な火山の大規模噴火と関連している ことが多い。

日本には火山が多く、1707年の富士山の宝永噴火、1783の浅間山の噴火、 1914年の桜島噴火、1991年の雲仙・普賢岳の噴火にともなう火砕流による災害 があった。

2022年1月15日にオーストラリア東方の南緯20度付近のトンガ諸島で海底火山 フンガトンガ・フンガハアパイが噴火した。この噴火は火山爆発指数VEI=5~6? と推定されたが、成層圏に吹き上げられた火山灰とガス(二酸化硫黄SO2: 別名亜硫酸ガス)が少なく、日本の気象観測所(筑波、南鳥島)における 直達日射量に目立った変化はなく、2022年に冷夏は生じなかった。 しかし、過去を振り返ってみると、大規模噴火は100年間に10回ほど発生し、 各噴火の間隔は40年余のこともあれば、数年間に数回も頻発することがある。 そのとき、日本の東北地方の太平洋側で大冷夏になりやすい(近藤、2022)。 「火山噴火と冷夏、いずれ起きる事象に 備えて」


7.2 凶作の気象原因比率の変遷

東北地方の青森県~福島県までの6県は、日本国土の約18%の面積をもち、 人口は約8%であるが、コメの生産量は全国の約30%を占めている。 このことから、東北は日本の穀倉地帯といわれている。

図7.1に1300年以後に宮城県で起こった凶作全体に対する気象原因比率の変遷 を示した。江戸時代半ば以前には干ばつと洪水が繰り返されており、 これは現代の発展途上国の姿に似ている。

日本では1600年以後の天下太平となった幕藩体制下においては、 各藩は自国の安定と発展のために河川の改修、灌漑、森林保護策によって、 干ばつと洪水は時代とともに克服されていった。干ばつと洪水を克服するのに、 300年間にわたる先達の努力があったのである。東北6県についても、 図7.1の関係はほぼ同じである。

凶作原因比率の変遷
図7.1 西暦1300年以後に宮城県で起こった凶作の気象原因比率の変遷 (Kondo, 1988; 近藤「地表面に近い大気の科学」2000の図9.7をもとに作成)。 


以下では、火山の噴火後に何が起きたか、代表的な3つの例を取り上げる。
7.3節は1707年12月に起きた富士山宝永噴火(VEI=5)の噴石・火山灰の堆積による 災害が小田原藩(現在の神奈川県と静岡県にまたがる地域)で生じ、 復旧するまでに約80年間を要した。その時代の詳しい資料が神奈川県立図書館蔵 「二宮尊徳全集、第14巻; 神奈川県史資料編5 近世(5)」にあり、要点をまとめた。

7.4節は1835年1月20日に中米ニカラグアのコシグイーナ火山の噴火(VEI=5) 後に大冷夏となり、仙台藩(ほぼ、現在の宮城県)では人口の約1/4の餓死者を出す 未曾有の飢饉が生じた。この時代に書かれた「花井安列の日記」や宮城県立図書館に 保存されている古文書から、当時の状況をまとめることができた。

7.5節は1991年6月15日のフィリッピンのピナトゥボ火山の噴火(VEI=6)の2年後、 1993年の大冷夏により平成の大凶作で米騒動が起きた。


7.3 宝永の噴火(1707年)、災害復旧に80年間

江戸の寛永~元禄時代(1624~ 1703年)は経済的に繁栄したが、 一方では放漫な財政支出によって赤字続きであった。元禄15(1702)年12月には、 赤穂浪士の吉良邸への討ち入り事件が起きている。このような時代、 元禄16(1703)年11月23日(新暦12月31日)、 M8.0~8.2の元禄大地震が 関東に大災害をもたらした。特に小田原で被害が大きく、城下は全滅している。 この地震による大津波は鎌倉で8m、伊豆で8~12mの高さであった。

その4年後、宝永4(1707)年10月4日(新暦10月28日)には、 M8.4の宝永大地震 があり東海・南海・西海道に大災害をもたらし、大津波は紀伊半島から九州まで、 さらに瀬戸内海を襲った。津波の被害は土佐 (高知県)で最大であった。

宝永大地震の1ヵ月後から富士山麓で震動・地鳴りが起こり、1707年11月22~ 23日には東北麓の吉田と南麓の吉原で頻発地震が起きる。11月23日(新暦12月16日) の10~11時に富士山の噴火が始まり、12月8日(新暦1708年1月1日) に収まり降砂も終わる。これは、のちに宝永噴火と呼ばれる。 この噴火で海抜2700m付近に噴火口ができ、その大きさは1300m×1000m、 深さは約1000mとなり宝永山(海抜2693m)ができた。吹き飛ばされた山体の容積は 概略1km立方(10億立方m)と見積もられている。 この噴火は世界的にみると、 大規模噴火の小さいほうに分類される(火山爆発指数VEI=5)。

永原(2002)によれば、宝永噴火による噴石・火山灰の堆積は 1.5~ 3m(現小山町)、60~70cm(山北村)、40~50cm(秦野)、 20~30cm(藤沢)である。火山灰による耕地と山野の埋没により、 飢饉と流亡が発生する。堆積した火山灰は降雨時には河川に流下し、 大氾濫が発生し、水死する者もあり飢饉と流亡が起きた。 住民は小田原・沼津・三島へ日雇い稼ぎに出た。火山灰が厚く堆積した村では 飢饉に見舞われた。

火山灰により小田原藩の本領地(武蔵・相模・駿河)は大きな被害を受けた (現在の神奈川県と静岡県にまたがる)。 図7.2に示す年貢米の変動からわかるように、元に復するのに1790年ころまで、 約80年間の年月がかかっている(近藤、2009)。 「富士宝永噴火と災害復旧」

小田原藩年貢米
図7.2 小田原藩の本領地(相模、伊豆、駿河)と関西領地(河内・美作、 または河内・摂津)における年貢米の変化(神奈川県立図書館蔵「二宮尊徳全集、 第14巻; 神奈川県史資料編5 近世(5)」に基づく)。  


年貢米は米の収穫高ではないが、その一定の割合が年貢米とされていたので、 年貢米の変動は収穫高の変動と見なしてよいだろう。 なお、年貢米は収量の30~ 40%程度であろうか。参考までに歴史教科書には、「二公一民」(税率67%)、 「四公六民」(税率40%)の用語もあり、江戸時代の税率の主流は40~50% の記述もある。

小田原藩本領地の年貢米について、1783年(天明3年)の減収は天明の飢饉 によるものである。これに先立ち、1783年8月5日に浅間山の噴火(VEI=4)と 1783年6月8日にアイスランドのラキ火山の噴火(VEI=6)が起きている。 また、1836年の減収は天保の飢饉によるものである。これは1835年1月20日に 中米ニカラグアのコシグイーナ火山の大噴火後に起きた。

天明の飢饉では日本全体で何十万人という人々が餓死した。この時の本領地 (相模、伊豆、駿河)では、飢饉年の減収は20~30%である。 また東北でも減収は甚だしかった。これらは当時の社会や政治に大きな 問題を引き起こした。

高等学校日本史の教科書を参照すると、天明の大飢饉における惨状は言語に絶する ものがあり、多くの人々が乞食(こじき)にでた・・・。 賄賂(わいろ) がしきりにおこなわれ、役人の地位も金で売買されるようになり、 幕府の統制力も衰えた。飢饉で数十万人におよぶ餓死者をだした。 このため百姓一揆(ひゃくしょういっき)や 打ちこわしが各地でおこった。


7.4 コシグイーナ噴火(1835年)と天保の大飢饉

仙台・伊達藩の一門、涌谷城主伊達安芸の家臣の花井安列の天候日記によれば、 天保6年(1835年)4月1日付けに異常な朝焼けがこのころ毎朝見られるとある。 これは1835年1月20日に中米ニカラガのコシグイーナ火山の噴火(VEI=5) によるものと推定される。その翌年の天保7年(1836年)は大冷夏となり、 雨が連日続いている。

この天候日記には気温や雨などが階級・量的に記されており、 例えば暑さについては「暑く御座候」「大暑」「暑甚敷」「難渋暑」 「近年覚無之暑気」など、 夏での寒さは「冷気」「寒い日」 「寒くて袷や綿入れを着る」とある。また風については風向のほか「風」 「大風」「しけ」「大嵐」など、雨については「雨少々」「雨しめる程」「大雨」、 また洪水の模様などが記されている。したがって、気温、風向・風速、 雨量などが量的に推定できるので台風が来た日などがありありと想像できる。 この表現から、工夫して毎年夏の平均気温を推定することができた (近藤「身近な気象の科学」、1987;Kondo, 1988)。

この方法で天候日記から推定した1836年(天保7年)の米作期3ヶ月間 (新暦換算で6月16日~9月15日)の平均気温は、平年より2.8℃の低温で 最大級の大冷夏であった。 別の古文書も参考にすると、 1836年8月28日には塩釜神社の杉百本余が倒れるほどの大嵐も重なり、 コメの収量は通常の10%となり、大飢饉により仙台藩の人口の4分の1が餓死している。 飢えた子を、心を鬼にした母親が川端で投げようとする悲惨な状態が 古文書に残されている(近藤「身近な気象の科学」1987、p.74)。

天保の大飢饉時代の社会・政治を高等学校日本史の教科書からみると、 将軍家斉(いえなり)は華美な生活をこのみ、政治の綱紀(こうき)もゆるんで、 いわゆる文化文政時代の退廃した空気をうむこととなった。 凶作が連年のようにおこり、農村はもちろん、都市にも困窮した人々が満ちあふれ、 百姓一揆・打ちこわしが各地で続発した。しかし、 幕府や諸藩はなんら適切な処置をとることができなかった。

1836(天保7)年の飢饉ははげしく、大坂でも餓死者があいついだが、 豪商は米を買い占めて暴利をえた。幕府は大坂の米を江戸へ廻送させようとした。 大坂町奉行所の元与力(よりき)であった大塩平八郎は、1837年、 民衆を動員して富豪をおそい、金穀をうばおうとしてたちあがった。 これは「大塩平八郎の乱」である。これは明治維新1868年の30年前の出来事であった。


7.5 ピナトゥボ噴火(1991年)と平成の米騒動

1991年6月15日のフィリッピンのピナトゥボ火山の噴火(VEI=6)の2年後の1993年 (平成5年)夏は1913年 (大正2年)以来の80年ぶりの大冷夏となった。 宮城県石巻における米作期の気温偏差は-2.0℃、 6~8月の気温偏差は-2.5℃ である。コメの作況指数は東北6県平均で57, 宮城県では37であった(近藤、1994)。

1993年(平成5年)のコメの不足により全国的な「平成の米騒動 」が生じた。 コメの不足で卸売業者がコメの確保に奔走し、小売店の店頭からコメが消えるという 混乱が生じた。コメが入荷すると、店の前に延々と行列が続いた。 政府はタイ国など外国からコメを輸入したが、普段食べていない味の違うタイ米が 不人気であった。それまでコメ農家保護のために、コメの輸入を認めていなかった 日本は、これを契機としてコメの輸入自由化がはじまることになる。

気候変動は気まぐれで、翌年1994年の夏は晴天の高温日が続き全国的な 異常渇水となった。宮城県蔵王町の養魚場では、水温が異常上昇し、 酸欠によって稚魚の大量死する事件があった。


まとめ

江戸時代半ば以前には、干ばつと洪水が繰り返されており、 これは現代の発展途上国の姿に似ている。1600年以後の平和となった 幕藩体制下において、各藩は自国の安定と発展のために河川の改修、灌漑、 森林保護策によって、干ばつと洪水は時代とともに克服されてきた。 「日照りに不作なし」という諺は、いまから約150年より後の事実を ほぼ正しく表現している。しかし、冷害だけはまだ残っている。本章では、 火山噴火後に何が起きたか、代表的な3についてまとめた。

近代的な気象観測資料が揃うようになった1884年(明治17年)以後に東北地方で 発生した大冷夏は、昭和初期の1931~1945年に頻発した5回の大冷夏を除けば、 世界的な大規模火山噴火後に発生している。噴火後に世界中で気温低下は生じるが、 特に日本の東北地方太平洋側では夏の気温低下が著しい。また、 気候に影響する大規模噴火の定義は、2000年までは噴出物の量で定義する 火山爆発指数VEIと、日射量の変化から定義するLamb(1970)による火山噴煙指数 (dvi)の2つの指数を用いてきたが、最近の気象庁の観測が充実してきたので、 2000年以後は気象庁による直達日射量の観測値を用いて大規模噴火を 定義することにした。これらの詳細は「身近な気象のふしぎ」の 第7章「火山噴火と冷夏」で取り上げる。


文献

近藤純正,1987:身近な気象の科学-熱エネルギーの流れ.東京大学出版会.pp.189.

近藤純正,1994:1993年の大冷夏-80年ぶりの大凶作.天気,41,465-470.

近藤純正,2000:地表面に近い大気の科学.東京大学出版会.pp.324.

近藤純正,2009:M46 富士宝永噴火と災害復旧.
http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kisho/kisho46.html

近藤純正,2022:K226 火山噴火と冷夏,いずれ起きる事象に備えて.
http://www.asahi-net.or.jp/~rk7j-kndu/kenkyu/kenkyu226.html

永原慶二、2002:富士山宝永大爆発.集英社新書、0126D、 pp.267.

Kondo, J., 1988: Volcanic eruptions, cool summers, and famines in the Northern Part of Japan. J. Climate, 1, 775-788.

Lamb, H. H., 1970: Volcanic dust in the atmosphere; with a chronology and assessment of its meteorological significance. Philos. Trans. Roy. Soc., London, Ser, A, 425-533.



トップページへ 身近な気象の目次