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  • 七色の里

    著者:近藤純正
    紙芝居「御用紙物語」にでてくる成山を紹介します。
    成山の人口などの変遷は、過去から現在にいたる日本
    の縮図を見るように思います。昔の日本の山間農村部
    には多くの人々が住み地場産業が盛んに行なわれてい
    ましたが、近年過疎化により急激に衰退してきました。

    伊野の地図

    成山の概要
    土佐七色紙の伝説、新之丞ゆかりの地として知られている 高知県伊野町成山には、「新之丞記念碑」「土佐七色の里」 「安芸三郎左衛門の墓」などがある。 「土佐七色の里」は七色紙創製にちなんでつけた名であり、成山小学校 跡地を利用して建てられた多目的施設のことである。 伊野町役場やJR伊野駅などがある伊野より成山へは ハイキングコースもあり、現在は車で行くこともできる。 伊野から北西方向に、標高400~500mの山々を望むことができる。 新之丞記念碑がある峠の東側に横藪、西側に成山の本村がある。 いずれも標高300m前後に集落がある。横藪は昔の成山村の一部で あったが、現在は成山とともに伊野町に属している。

    紙芝居「御用紙物語」が作られた時代、成山へは山道が通じていたが、 現在は車道が出来ている。神谷(こうのたに)の奈呂(なろ、バス停留所 又白=またしろ=下車) にある神谷中学校と神谷幼稚園の間を通り、北の方向へと登る。 40~50分間歩き、前田の三叉路で右に折れ、橋を渡り東方向へと向う。 そこから50~60分歩くと「土佐七色の里」に到達する。 さらに車道1.3kmを歩くと峠に至る。その途中、「土佐七色の里」から 200mほどのところで脇道に入ると、昔、紙草を晒していた清水の湧いて いたところがある。現在、ここは上水道の取水が行なわれており、 清水は僅かしか見られない。

    地図に示す赤の矢印は、今回歩いたコースである。神谷の奈呂(又白) ~前田~土佐七色の里~仏が峠~横藪の太刀洗い川~伊野の谷~ 国道194号線へと歩いた。 伊野から土佐七色の里へは、逆コースで歩いてもよく、 タクシーまたは小型車で行くこともできる。

    昭和時代の前半、母・近藤 郷は成山について次の歌を詠んでいる。

          『新之丞あわれなりけり春の山』
    
            『梅雨晴れ間 朝日さしくる成山に
                      靄(もや)わき立ちて 天にとどけり』
    紙芝居「御用紙物語」にもあるように、新之丞祭り は、毎年3月5日に仏が峠の記念碑の前で行なわれていたが、 近年は過疎化により中止されている。

    成山小学校は現在廃校となっているが、明治~昭和初期の時代、 成山村は児童生徒数も多く、村祭りも賑やかに行なわれていた。

    施設と公園
    「土佐七色の里」には自炊する設備もあり宿泊することができる。 ただし、寝袋等の寝具は利用者が持参することになっている。 前もって伊野町ほけん福祉課に連絡すれば利用できる (電話 088-893-3811)。 なお、「土佐七色の里」の現地管理人は西内チエコさん (電話 088-892-3807)。

    仏が峠は「成山和紙の里公園」として整備されている。 そこには新之丞記念碑があり、その脇には伊野町作成の案内板がある。

    うばが森(高森山、449m)は養甫尼が仁淀川から運んだ小石 を供えたと言われている。仏が峠より歩いて15分ほど で行ける。頂上からの眺めは素晴らしい。

    成山の歴史
    成山村(横藪、成山本村、北成山)についての資料(「七色の里= 成山小学校史」、昭和61年9月13日発行、編集委員長・岡尾昭生) によれば、1680~1720年の戸数は60余戸である。

    1743年の戸数は103戸、人口は478名、耕地面積は収穫量で 表わすと97石余(コメに換算して14トン余)である。

    小学校児童在校生の人数は明治43~昭和14(1910~1939)年には 61~86名、昭和21~31(1946~1956)年には41~54名、 戸数は53~58戸、人口は312~344名であった。 昭和14年の児童在校生77名から昭和15年に42名に激減したのは 横藪と陰地区の校区が伊野小学校に転じたためである。 昭和59(1984)年には児童数は1名となり、その1名が3月31日卒業し、 現在は廃校となっている。

    昭和3(1928)年、成山村は神谷(こうのたに)村へ編入。 昭和29(1954)年、神谷村は伊野町へ併合。2003年現在の成山 (成山本村と北成山)の戸数は23戸である。