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  • 紙芝居の最初

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  • 解 説

    著者:近藤純正
    紙芝居に出てくる国の名や城の位置関係
    および登場人物について説明します。

    四国の地図
    私が生まれて幼年時代を過ごしたのは仁淀川に沿う 伊野町加田であります。加田から南を眺めれば、対岸には人工的 な形に見える山頂(標高172m)がそびえていました。 『昔、あの山頂に波川玄蕃(はかわげんば)の城が あった』と聞かされていましたが、あの山頂になぜ城があったの かと、子供心ながら不思議に思っていました。
    今回、父の残した紙芝居「御用紙物語」を整理することで、 戦国時代から江戸時代初期にかけての出来事を学びました。

    波川玄蕃城(葛木城)・・・仁淀川を挟んで、成山の対岸にあたる 伊野町波川と日高村の境の、見晴らしのよい山頂に城址がある。 当主 ・波川玄蕃は天正8(1580)年に謀反があったとの理由により 長宗我部元親によって切腹させられた。 玄蕃の妻は 長宗我部元親の妹、のちに名を養甫尼に改める。

    安芸城・・・現在の高知県安芸市にあった。安芸一族が九百年間にわたり 居城としたが、戦国時代の永禄12(1569)年に、当主・安芸 国虎は長宗我部元親によって滅ぼされた。 安芸国虎の 次男・鉄之助はのちに名を安芸三郎左衛門と改めた。 成山の 峠で新之丞を切り殺した。

    浦戸城・・・長宗我部元親によって天正16(1588)年に構築開始し、 天正19(1591)年に完成。 場所は土佐湾から高知湾への入り口 にあたる桂浜の近くにある。関ヶ原の戦いで豊臣側についた長宗我部 氏が亡びたあと、山内一豊が浦戸城に入城した。

    長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・戦国時代の1500年代 の土佐では、中部は長宗我部氏が、東部は安芸氏が、西部は 一条氏が支配していた。 長宗我部元親は天正3(1575)年に 四国を統一した。 関ヶ原の戦いで長宗我部軍は豊臣側についたため、 土佐は家康によって取り上げられた。

    養甫尼(ようほに)・・・長宗我部元親の妹。波川玄蕃の妻となったが、 玄蕃が長宗我部元親によって滅ぼされたのち、出家して成山に住む。 新之丞を助けて色紙をはじめて作った。この時代、姻戚関係にある城主でも 討ち滅ぼされる例がある。

    新之丞(しんのじょう)・・・突然の病で倒れた伊予(愛媛県)宇和郡 出身の新之丞は、天正17(1589)年、成山で養甫尼に助けられた。 その恩返しに養甫尼と甥の安芸三郎左衛門に和紙の製法を教え、 色紙を作った。七色紙は天正19(1591)年に創出、 慶長6(1601)年に浦戸城にて山内一豊へ献上された。 これは藩の特産品として保護された。 慶長元年(1596年)3月5日、伊予国に帰ることになった 新之丞から秘法が他国へもれることを恐れた藩は、 安芸三郎左衛門に命令して仏が峠で新之丞を殺した。 これは戦国時代の厳しい時代背景のもとで起きた事件である。 文化12(1815)年頃、新之丞の碑ができる。
    現在の仏が峠には、大正5(1916)年9月に建立された記念碑 ”紙業界の恩人新之丞君碑”がある。 紙芝居「御用紙物語」に出てくる石の仏を祭ったお堂は、 現在はなくなっているが、小さな石仏が記念碑台座の南側に接して ある。

    山内一豊・・・関ヶ原の戦い(1600年)の功績により、掛川(静岡県) 5万石から土佐24万石を与えられ土佐藩主となる。一豊は最初、 浦戸城に入城したが、慶長6(1601)年に高知城を築いて移り、 浦戸城は廃城とした。

    六部遍路・・・鎌倉末期に始まる といわれる「六十六部遍路」の略。 書き写した法華経を全国六十六ヵ所の霊場に一部ずつ納める 目的で遍歴する行脚僧。家々を廻り、死後の冥福を祈るため 鉦(かね)を叩き鈴を振り、銭を乞い歩いた巡礼。 江戸時代には俗人の男女も行なうようになる。