涙とよだれの日々

深夜の決死の吸い出し隊

 C先生が説明する。
 「右の肺が潰れかかっています。痰がつまり過ぎていてほとんど機能していません。結果として酸欠状態が危険な程度までになってしまいました」
手足の「イジイジ感」はこのせいだったのだ。
「緊急事態ですからこれから処置をします。リカバリー・ルームで行います」
 そのままガラガラと移動させられる僕。 「えっ、えっ?」ぞろぞろと集まってくる先生方。
 「呼吸器科のH本です」「第二外科のS川です」各人が自己紹介している。この夜泊まりの当番だった先生方で、必要な処置をできそうな方をかき集めたらしい。
そのうち、なんだか重々しい器械が僕の横に。
「これ、どこにつけるの」
「ここじゃない?」
「ああ、はまった」
「じゃあ僕がやる」
『おいおい。ねえ、それってどういうこと?』
本当にその器械に詳しい先生がいないのだ。不安。
666号室・酸素マスク 「入った?」
「入った」
「こっちかな」
『ゲロゲロ (僕)』
「あっ、ごめんね」
『ねえ、とんでもないところに何か入って行ってる感じなんだけど…』
「こっちだよ」
「見える見える」
「こりゃぁ粘着性だね」
「相当?」
「しつこいわ」
「スイッチこれ?」
「そう」
「行くよ」
 その時、僕の右の肺奥深く入っていたチューブが、僕のにっくき痰を吸い出し始めた。
「取れてる、取れてる」
『き、気持ちいい』
「取れてる、取れてる」
「僕にもやらせて」
「うん」「いやあ、粘っこいねえ」
「ね」
「取れたかな」
『うん。き、気持ちいいですぅ』
  という感じで、僕の痰は抹殺された。吸い出し隊は解散。
「ありがとう」
「ご苦労様」
 僕は以上の先生方の行動を茶化しているつもりはさらさらない。むしろ本当に頼もしいと思った。全然不安ではなかったのだ。僕の酸欠状態は消滅した。
そして長い長い、退屈な術後生活が始まる。

体に起きるいろいろな変化

 「決死の吸い出し隊」の活躍の後も、僕はしばらく高濃度の酸素を吸っていた。そのせいなのか、それとも痰とともに今までの汚いものを取ってしまったせいか、あらゆる臭いに敏感になった
先生や看護婦さんが、昼に何を食べたか分かってしまう。煙草を吸っている人がベッド脇に来ると、すぐに分かってしまう。どころか、煙草の匂いが少し苦痛なぐらいなのだ。あのチェーン・スモーカーの僕が?その他の臭いのきつい食べ物もつらい。ギョウザ、焼肉、カレー。
 ほんまかいな、というぐらい敏感になってしまったのが、「」だった。これはもっと後の話、飲食が可能になったころのことだけど、もはや水道水は飲めなかった。
そして、ベッド・サイドにはミネラル・ウォーターが欠かせなくなった。当時、今ほどは出回っていないので選択肢は少なかったが、結局、Volvicになった。これは今でもいちばん好きな水。
 家の水道は多摩川系統だが、浄水器をつけてやっと飲める。これが江戸川下流域の水道水だったら、絶対引っ越しを考えているだろう。以前も、その味と臭いに閉口した経験がある。
 起き上がれない。しばらく、腹帯を巻いていた。つまり傷口が開いて、残り少ない内臓が出てしまわないように、かな、さらしを巻いていた。
前にも述べた通り、僕は二ヶ所開腹していた。三、四日は全く起き上がれず。その後も、腹筋で起床することは不可能で、腕の力だけで上半身を起こしていた。ベッドの枠ゃ、天井から下がる特設のすがり紐に頼っていたのだが、全く腹筋に力を入れずに、というのは無理な話で、どうしてもウッとやってしまう。その激痛。
 何気なく感じる体力の低下には愕然とした。歩かなくてもそれは分かる。非常に心配だった。「もう歩けないんじゃないか」と思ったほどだ。
 人は、もし健康体であったとしても、1ヶ月寝たままでいれば、体力は劇的に落ちる。たとえば筋力。そして抵抗力。さまざまな「力」が失われる。実は、これを取り戻していく過程が素晴らしい。病気はぜひ一度、体験するべきである。冗談だけど。でも、僕は病気をして初めて、人のいろいろな力の凄さを知った。もともとな〜んにも知らないお坊っちゃまなので、胃を取らなかったら、この「人体の驚異」をひとつも知らずに死んだだろう。
 話がそれた。部分摘出と全摘では、体力の回復もまったく違うらしい。僕の3日後くらいに胃の3分の1を取った、Tさんは、翌日にはもう歩いてトイレに行っていた。僕はまだ起き上がるのさえやっとという時に、だ。

 さて、尿瓶を使うのがちょっとばかしプライドを害するなと感じていた僕に、さらに恥ずかしい試練が待っていた。

ケツ割れファッションとスカトロ・プレイ

 手術から11日目、腹部のレントゲン撮影をした。レントゲン室までは車椅子で行く。それでさえちょいと体力を消耗する。さて、撮影の前に、それ用の服に着替える。皆さんも大体、「ああ、あれだな」って分かるだろうけど、今回はちょと違う、ズボンが。
パックリ割れているのだ。「こ、これは!」と目を見張る僕。これじゃあ、ゲイそのものだぞ。
 そんな僕の羞恥心も無視して、そそくさと注入される造影剤。もちろん肛門からである。いわゆる「注腸造影」というやつだ。
上からも飲む。バリウムではなく、透明なやつ。下剤入りだ。僕はまだ、食事はおろか、水さえ飲んでいなかったので、これは地獄のような苦痛だった。結局は30ccくらいしか飲めなかった。
そうそう、本当は口から飲むだけでいいんだろうけれど、まず、飲めないんだな。だから、かなり遠回りだけれどお尻からも入れる、という寸法。
 そうして、グルグル台の上に横たわる。水平からほぼ垂直まで、台の傾斜を変えてレントゲンを撮る器具。
僕はその場で右向き左向き前を向き、上を向き下を向き後ろを向き、右斜め後ろ下約45度を向き…。まだなのか? もう出そうです。つまり上からと下からと出る寸前なのである。
「はい、ちょっと右向いて〜」「はい、そこで腰をひねって〜」「そうそう、股を大きく開いて〜」「ちょっと笑って〜」「はいチーズゥ」パシャッ!
 後半は嘘ですよ。「嘘です」って書いとかないと信じる人、たまにいるんだなこれが。
 僕はゲロはなんとか我慢した。しかし涙は我慢できなかった。ボロボロ泣いていた。ウーウー唸りながら。気持ち悪いのだ。
体力がないので膝はガクガクしている。もう立っていることがやっとだ。その間も、口からまた、変に媚びた味の造影剤を追加で飲め、と言う。
これじゃあ、ダンテの地獄篇だぞ。いや、北○鮮の拷問か?
 やっと終わった。着替えの小部屋に戻った。
見るのが恐かった。でもそうはいかない。口と目からだけでなく、下半身からもなにやら漏れていた。「やっちまった」
しかたないだろ!  病人なんだから。ちょっとぐらい臭くたって我慢しろよ。いいだろ。ほっとけ!!

赤方偏移のネブライザー

 さて、消化器系統の療養はもちろんメインなのだが、もう一つ大事なことがあった。呼吸の訓練だ。
麻酔、開腹、開胸、このせいで僕の肺はかなり弱ってしまった。まだ溜まり気味になる痰を意識して出さなければならない。そして呼吸の勢いを徐々に訓練して強めていかなければならない。
 呼吸の訓練をする器具があった。名前は知らない。まるで赤ん坊のおもちゃのように見える。透明な筒の中が3段階くらいになっていて、それぞれに色のついたボールが入っている。筒の一部に息の吹き込み口がついていて、少し息を吹き込むとボールが一個浮き上がる。もう少し強く吹くと二個目が浮き上がる。
そうして、なんとか全部のボールを浮き上がらせられるまで何度も何度も訓練するのだ。やってらんない。
 痰の粘り気を取るために使う器具が「ネブライザー」。喘息の方なども使う、「噴霧吸入器」だ。これ、ものすごく退屈。さらに味気ない。
加湿器にいくつかある方式とまったく同じ原理で、薬剤を霧状、あるいは蒸気にして、口や鼻から吸い込む。喉や肺の治療用の器具。
僕の場合は、痰を柔らかくする薬剤が入っていた。おいしくはない。そして、これをやってる間は、当然あまり身動きできないし、他のこともできなくなる。
 ある日の夕方、窓際の西日の当たるベッドで、ネブライザーを口にくわえた僕は、真っ赤な夕日を眺めながら泣いた。特に意味はない。入院の疲れとネブライザーの憂鬱に負けただけである。夕日は滲んだ。はあ。それにしても、体力ががくんと落ちていると、しきりと泣く。おじさんの癖に。
ちょうどそこへやって来た看護婦のF本さん。「どしたの?」
「分かんない」
「もう、いやんなっちゃった」
これじゃあ子供だ。でも入院している間、人間はある程度どうしても子供になってしまう。しようがない。
元気づけてくれるF本さん。天使だった。