平成17年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

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志賀海神社の力石 1個

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民族文化財・有形民族文化財
福岡市東区 志賀海神社

概要

 神社境内や路傍の小祠に丸石が祠られている光景をよく見かけます。古来石に対して神秘な威力を認める信仰があったと考えられています。そうした石神の信仰は石神・石神井などの地名として現代にも残っています。
 力石とは力だめしをする石のことですが、その由来は神霊の依坐である石を持ち上げることで豊凶・天候・武運等の神意を伺う石占の信仰に遡ると言われています。又、米一俵分の重さを担ぎ上げる力が成人の資格と考えられ、それを証すために用いられた力石もあったようです。聖的な意味をもつ民俗信仰や行事が俗化し、遊戯化・誤楽化する例がありますが、以上のような意味を荷った力石もいつしか若者の力自慢の道具と見られるようになりました。(『福岡市の文化財(無形文化財・無形民俗文化財)』より取意)上げ方には肩上げ、両ざし、片手ざしなど様々な方法があり、「力持」「曲持」の興行にも使われました。
 志賀海神社の力石は拝殿右手の境内の砂地の上に寝かせておいてあります。

法量

  銘文  正面(上面)陰刻銘   「力石」  線刻籠字
      右側面陰刻銘  「芥屋町三右衛門」 魚子地状に平彫り
  石質  玄武岩
  法量  66.0×36.0×27.5 cm
  重量  118.2 cm

   uwamen.jpg正面takuhon.jpg上面で拓本をとったところmigisokumen.jpg右側面

指定理由

 本力石は右側面に「芥屋町三右衛門」と銘があり、芥屋町(現博多区奈良屋町)の三右衛門が奉納もしくは持ち上げたものであると考えられます。
 芥屋町の町名の由来は志摩郡芥屋浦(現志摩町)の漁人が仮に網屋を作ったことによると伝えられます(『筑前国続風土記附録』)。
 宝永5年(1708)、朝鮮に漂流した博多芥屋町船頭甚右衛門、長松、博多西町浜水主善四郎の長崎送還・筑前国帰国を伝える史料は(『福岡藩御用帳』)廻船業を営む者が芥屋町に居たことを想わせます。
 『博多津要録』によれば、元文五年(1740)、「内海」の漁場につき、博多湾北岸の大嶽(那珂郡)・境戸崎(西戸崎、那珂郡)より内は、福岡浦分・博多浦分・箱崎浦(粕屋郡)・姪浜浦(早良郡)・奈多浦(粕屋郡)それぞれの入会の漁場とすること、地所(抱え地)の境界を定めること、よその地所(抱え地)で干鰯干しを行うときは、「浦並法」にしたがってお互いに「浜口銭」を支払う再確認がされました。また寛保2年(1742)、干鰯干頭取芥屋町次郎右衛門らは「博多浜手」で干鰯干しを生業としてきた九十人を代表して立町浜(現博多区下呉服町・大博町)が願い出た立町浜干鰯干し場の独占使用に反対したことがあるとの記述があります。博多のものが向浜(向へ浜)で干鰯干しをすることも多かったらしく、殊に志賀島(那珂郡)抱えの才戸崎(西戸崎、那珂郡)の「御建山」下浜での干鰯干し場をめぐって、志賀島庄屋と「博多干鰯干中」との間に年々出入りがあり、宝暦九年(1759)、両者間に「浜口銭」の取り決めがなされています。
 なお寛政11年(1799)、芥屋町網屋伊右衛門が奉納した石造物が親王宮(東区若宮1-14)に残っていますが、網屋の家号は慶応2年(1866)にも見えています(『博多店運上帳』)。
 以上のことから、芥屋町は廻船業や干鰯作り・漁業を生業とした町であったことが考えられます。
 志賀島並びに志賀海神社は古来よりの航海の安全を守る神として貴紳衆庶の信仰を集め、福岡藩主の御座船も長崎警備の際などには参詣しています。ことに七月七日の七夕祭は遠近の参詣者多く、所々の商人も商いに集まり村中市を起こしました(『筑前国続風土記』)。この七夕祭は現在も八月七日八日に行われており、西浦・唐泊・姪浜・玄界島等博多湾岸の漁船が参詣に訪れています。
 本力石の伝来の経緯は明らかではありませんが、廻船業や干鰯作り・漁業を生業とした芥屋町の三右衛門が海上安全や豊漁祈願やその報賽として、或いは実際に仲間たちと行った力比べの記念として奉納したものではないかと考えられます。本力石は本市に現在確認できる数少ない力石の一つとして、また海を生業とした者たちが海の神、志賀海神社の神庭に据えた記念碑的な報賽物として貴重な価値を持ちます。