平成14年指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

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志賀島の盆踊り

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民俗文化財・無形民俗文化財
福岡市東区 志賀島の盆踊り保存会

 20年程前までは、荘厳寺観音講の婦人たちが中心になって、荘厳寺から踊り始め、その後初盆の家を回るなど、13日から17日まで踊っていたという(『志賀島の四季』他)。現在は8月16日・17日を中心に渡船場そばの広場で踊られています。日にちは年によって一定していません。
 衣装は昔しは揃の紺のパッチに白足袋(桜田勝則「志賀島記(一)」1933年)であったり、振り袖に鉢巻き、或いは襷がけであったり(梅林新市「志賀島の盆踊り」1933年)、また趣向をこらした仮装をしたりしたということですが(『志賀島の四季』)、現在は特別な装いは見られません。
 かつては即興であった唄も、今はテープを使用し(1986年、東京に招待されて公演した時、クラウンレコードで録音したレコードが原音)、以前あった唄の掛け合い、応酬の姿は見られませんが、定着した二十数節の歌詞は書き留められており、年輩者はこれを記憶し、唄うこともできるそうです。
 踊りは団扇、或いは綾(あや)と呼ばれる二本の竹を両手に持ち、左回りに輪踊りします。

【踊り方】
 隊形:輪踊り 
 小道具:綾竹二本
 進行方向:反時計回り(体はやや円心向き)
 踊り始め
   円心向きで両手に綾竹を持ち、前奏十二呼間を聞いて唄から踊り始める。
   左足を右斜め前に出し、頭上から綾竹をチョンと打ちおろし、右足を右横に開き、
  左足を右足横に早間に引き寄せる。
   進行方向に右足を出し右手下方、左手上方より胸前で綾竹をチョンと打ち合わせ、
  左足を右足にそろえながら両手綾竹を同様に打ち合わせる。
   左足を円外に引き(体やや左向き)左腰前で右手上、左手下で綾竹を打ち合わせ、
  一呼間休む。

 以上をくり返す。
       (1986年、クラウンレコードドーナツ盤、福田正編曲、唄鎌田英一、
        おはやし志田雅秋、クラウンオーケストラの「志賀盆唄」の解説に拠る。) 
       
 両手に尺余の綾(あや)を二本持ち、これを打ちならして踊る点に特徴があります。綾と呼ばれる道具は、小豆を中に入れた竹を、紅白の紙で螺旋状に左巻きに巻いて装飾し、両端に切り紙の房を付けたもので、これを打ちならして拍子をとる日本の民俗楽器であり、打楽器の一種です。
 長さ七-八寸のものを「こきりこ」、やや長いものが「綾竹」とされます(小野武雄『江戸の舞と踊の風俗誌』)。「筑子(こきりこ)の竹は七寸五分じゃ 長いは袖のカナカイじゃ」の歌詞で知られる富山県五箇山のこきりこ踊りの様子は江戸時代の記録にも残り有名です(『奇談北国巡杖記』文化3年・1806年)。
 綾竹には種々の形態があり、隣島の相島(新宮町)の綾竹は一文銭を付けたものだったといい、同じく一文銭を竹の中に入れた綾竹を高知県安芸市では銭太鼓といい、その踊りは「コッキリコ踊」というそうです。大分県姫島の銭太鼓は孔明き銭を付けたタンバリン様のものですが、アヤダケを持った「アヤオドリ」も踊られています。
 歌詞については、かつては即興の掛け合いで歌ったもののため、その多くは記録として残されていませんが、現在二十数節の歌詞が定着し、その他いくつかの記録から六十余節の歌詞を見いだすことができます。近世歌謡に共通の七七七五調で、前半七七の旋律については四国地方に多く、海路から伝えられたのではないかという意見がありますが(日本放送協会編『日本民謡大観 九州篇(北部)』日本放送協会 1977)、多くは全国各地に共通して伝えられているものであり、海岸線に沿った伝播を想像させる分布にもなっています。
 志賀島の盆踊りについて今のところ古い記録を見いだすことはできませんが、伝承からすると、少なくとも江戸時代の終わり頃から歌いつがれ踊りつがれてきたものと考えられ、本市を代表する盆踊りというだけでなく、盆踊りや民謡の伝播を考える上でも貴重な価値を有しています。