平成13年度福岡市指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

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陶造薬師如来坐像 1躯

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有形文化財・彫刻
博多人形商工業協同組合

品 質  陶造 
法 量  総高79.6cm 像高54.6cm 髪際下48.7cm 頭頂-顎20.0cm 
     髪際-顎12.2cm 耳張13.3cm  耳長(右)9.0cm 耳長(左)8.9cm
     面幅12.2cm 面奥15.1cm 像奥31.7cm 
     台座高22.3cm 蓮肉部(横)39.3cm 蓮肉部(縦)33.5cm
銘文等 【像内背面陰刻銘】
      天保十己亥年春/陶工師正木宗七幸弘作/六拾六歳
    【蓮台内陰刻銘】
      天保十己亥年春六拾六歳/陶工師正木宗七幸弘作之
    【反り花底部陰刻銘】
      天保己亥春/陶工宗七
    【左腰部押印】
     「正木/幸弘」(方印・陽刻)「宗七」(長円印・印刻)
像 容  右手に与願印を結び、左手に薬壺をもち、
     右足を上にして蓮台上に結跏趺坐する。
備 考  右手首先後補。右手親指欠損。螺髮・体部・蓮台等に朱色顔料を塗布。
作 者  正木宗七幸弘
時 代  天保十年(1839)
 
 江戸時代、観音山と呼ばれた(現在字名は上の山)金の隈一丁目の竹林中の小堂に安置されていたものです。
 江戸時代の地誌によると、この観音山には地蔵堂(薬師堂ともいっている)と観音堂の二つの小堂があったそうです。
 前者の地蔵堂(薬師堂ともいっている)については「森の内に地蔵堂有。地蔵・薬師の像有。」(筑前国続風土記拾遺)とあり、本像が安置されていた現在の下のお堂を指しているものと考えられます。現に本像の他に大小二躯の木造の地蔵菩薩像も安置されています。
 また後者の観音堂についても、「観音堂有。十一面観音左右に大日・勢至の二菩薩あり。いつれも立像長五尺許有。」(筑前国続風土記拾遺)、また「観音堂 クワンヲンヤマ 台叡山金剛寺址と云。大日・弥陀・釈迦同座」(筑前国続風土記附録)ともあり、現在の上のお堂を指したものと考えられます。現に、総高180センチをこえる十一面観音を中心に、左右に総高170センチほどの如来像・菩薩像が立っています。
 本像が当初から地藏堂に奉納されていたものか、或いは後世外部から持ち込まれたものであるかは不明ですが、上記に見える廃寺「台叡山金剛寺」との関連を考慮すると、本像が当初からこの地に祀られていた可能性はあります。
 作者正木家の祖は播州の瓦師正木仁兵衛です。黒田家に仕え、長政の筑前国移封に従って豊前中津から福岡に移り、福岡城の瓦を焼いたと伝えられます(『長政公入国より二百年町家由緒記』)。
 仁兵衛から数えて四代目に当たる分家の初代正木惣七(延宝7年・1679〜明和3年・1766)が、瓦師から陶工師に転じ、黒田家の御用焼物師を勤めたのが「宗七焼き」の始まりとされます。以来六代にわたって技術の研鑽・工夫に努め、本像の作者正木宗七幸弘(安永3年・1774〜天保13年・1842)はその四代目にあたります。
 「宗七焼き」の作品としては仏像のほか茶道具、香炉、面、床の間の置物など精緻を極めた高級品が残されているますが、その遺品は必ずしも多くありません。
 本像は黒色の燻しをかけて焼成した後、頭体部全体にべんがらと思われる朱色顔料を塗布して古色を付け、一見銅造かと見間違うほどの銅の錆を表現して居り、また眉やひげ、指先などには毛彫りを施すなど細部にまで丁寧な表現を見せています。
 四代宗七最晩年の大作である本像は、「宗七焼き」の技術や技巧、またその全体像を明らかにする上で極めて高い価値を有するものです。
 尚、本像は平成13年に金の隈一丁目町内会から博多人形商工業協同組合に寄贈されました。