平成13年度福岡市指定文化財

更新日 2013-03-03 | 作成日 2007-10-08

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博多仁和加

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無形民族文化財
博多仁和加振興会

 「にわか」(俄、仁和加、仁輪加、二○加、庭神楽などとも書かれる)とは「にわか狂言」を略した言葉です。祭礼において種々趣向をこらした素人の出し物が演劇化した即興の笑劇であり、18世紀半ばの江戸時代中期から大阪・京都・江戸で流行し、全国各地に伝播したと考えられています。
 博多仁和加は口承では、黒田如水・長政父子が播磨国一宮・伊和大明神の「惡口祭」を移入し、藩政に資する手だてとしたことに始まるとの説があります。
 複数の演者による即興劇「段物」や、二人で台詞を応酬する「掛合い仁和加」、一人で演じる「一人仁和加」が博多仁和加の主体であったようですが、現在ではそれらの「落ち」の部分が独立した「一口仁和加」が主流になっています。
 三味線・鉦・太鼓の出囃子で幕が開き、「東西、東西、鳴物をしずめおきまして一座高うはございますかなれど、不弁舌な口上ナ以て申し上げます。」の口上があり、「半面」「ぼてかづら」の演者が登場する芸態は現在も踏襲されています。
 即興笑劇であることを基準にすると、現在全国20ヶ所で「にわか」が継承されています。このうち文化財に指定されたものに、「佐喜浜にわか」(高知県室戸市佐喜浜町、H6、国指定、無形民俗文化財)、「美濃流しにわか」(岐阜県美濃市、H8.7.9、県指定、 無形民俗、H8.11.28、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財に選択)、「名振のおめつき」(宮城県雄勝町、町指定、無形民俗)、「だんじり仁輪加狂言」(広島県世羅郡甲山町、町指定、無形)の4件があります。ちなみに、福岡県甘木市の「甘木盆俄」(市指定、無形)は歌舞伎芝居・地芝居であり、所謂即興笑劇の「にわか」とは性質を異にしています。 

 全国各地で伝承されている「にわか」や、『古今俄選』(安永四年、1775)など諸記録からすると、「にわか」は都市や農漁村の祭礼に様々な趣向を凝らして練り歩いた「通りもの」「練りもの」と呼ばれた行列にその淵源が見いだされるようです。例えば、『阿波国風俗問状答』(文化年間頃、1804-18)には、盆踊りに七、八人から十四、五人が一組になって銘々「俄」と書いた提灯を手に、「所望」と声をかけられれば門先で役者の物まねをしたり、「独俄」が声色をつかって笑いを誘って練り歩く情景が報じられています。これは当時全国の春夏秋冬の祭礼で一般的に見られた光景であると考えられます。
 その衣装については『守貞謾稿』(嘉永六年頃、1853)は紙の張り子の鬘である「ボテカヅラ」を着すと記している。現在博多仁和加で用いられる半面については佐渡の年中行事絵巻(文化十三年写、1830)やその他の祭礼図にも見られ、目鬘(めがつら)と呼ばれていたことが知られる。
 江戸時代の博多仁和加については余り手がかりはありませんが、『石城志』(明和三年、1766)が伝える松囃子の「戯言を吐」く通りもの叙述、『筑前名所図会』(文化四年、1821)が画く松囃子の通りもの図などは「にわか」の光景であると思われます。また『旧記集』は文化六年(1809)の唐人町の「二○か」を、『博多天保弘化記』(所在不詳)は天保十四年(1843)の「盆ニワカ」を、「富永家文書」は安政3年(1856)の周船寺の演劇仕立ての「俄手踊り」を伝えています。また、観慰亭なるものが版元となった『俄給金位附定』、『両市中諸芸盆踊役者給金並位定』(弘化元年、1844)には「一人俄」他、「俄」に関する記述が見られ、これが「仁和加番付」(平井武雄氏)ではないかと考えられます。
 かつて「ぼてかづら」を頭に、「半面」を顔に着して演じた「にわか」は、寸劇仕立ての「段物」であれ、当意即妙な「一人にわか」であれ、全国津々浦々の祭時一般に見られた光景であったと思われます。しかし、その出で立ちは現在、博多仁和加にしか見ることはできません。
 博多仁和加は、江戸時代以来の「ぼてかづら」と「半面」の装いを継承する全国的にも類例のない芸能であることに加え、それぞれの各地の言葉で演じられる「にわか」と同じく、豊前とも筑後とも違った「博多弁」で演じられる点において、また「一口仁和加」の寸鉄人を刺す滑稽・風刺の精神とともに、江戸期以来の伝統を継承する本市を代表する民俗芸能としての価値を有します。