平成9年度指定

絹本著色楊柳観音菩薩像


写真

品質  絹本著色
形状  掛幅装
法量  108.5×57.1cm
内黒漆箱蓋表金泥書
    「筑前侍従綱政寄進観世音寺 観世音尊像 金岡筆」
外杉箱蓋表墨書
    「金岡之観音」
同 蓋裏墨書
    「大正四年十一月添外筥 承天寺什宝」
時代  高麗時代
状態  画幅下端が切除されていますが、全体的に保存状態は良好。

 『華厳経』入法界品に説かれる、善財童子が求法の遍歴の途次、補陀落山で観音菩薩に出会う場面を描いた仏画です。日本では楊柳観音、韓国では水月観音の名で呼ばれます。楊柳観音は『法華経』普門品(観音経)に説く三十三観音の一つで、種々の病難救済を本願とする菩薩です。
 笹の生い繁る双竹を背に、岩上の草座に左向きに半跏坐した岩窟の楊柳観音を大円相中に描いています。岩窟からは一条の瀧が海に向かって流れ落ち、観音は珊瑚樹の海から生じた蓮華に垂下した左足をのせています。右手に楊柳の小枝を持ち、傍らにガラスの承盤を伴った水瓶が描かれています。対岸では善財童子が少し腰を屈めた様な格好で観音を拝しています。
 肉身部の輪郭は鉄描線で朱線を引き、肉身部全体を金泥の平塗りで彩色しています。
 赤衣の化仏が坐す宝冠の上から透明なヴェールを被っています。ヴェールの地模様は白い極細線で描いた麻の葉つなぎ文。その上に、唐草を逆S字形に組み合わせた金泥の唐草円文を散らしています。(模様
 裳は紅色で、白で輪郭をとった亀甲文とその中に配した金泥の菊花文(菊花挿入亀甲文)が地模様ととなっています。その処々に蓮華の華と葉を組み合わせた金泥で輪郭をとった上下対称の楕円形の蓮華文を散らし、裳裾には牡丹唐草文を描いています。
 青銅もしくは青磁を表した水瓶には青海波を主とした細緻な文様が金泥で表わされています。土坡には魚子地状に金泥の点が施されています。

 『筑前國中神佛寳物記 完』(宝永1.1704成)の承天寺の項に載せる二幅(黙庵筆、雪舟筆)の観音像のうち、黙庵筆が本図に該当すると考えられます。また、岡倉天心が『九州・支那旅行日誌』(明治45.1912)で「伝思敬筆 楊柳観音 絹本着色 明初の画F 呉道子風」と記したものでもあると考えられます。なお、黙庵は江戸時代まで元の禅僧と見られていた日本人の入元僧です。思敬は張思恭で、室町時代の『君台観左右帳記』に初見し、長く元の画家と考えられてきた架空の人物です。
 一般的に、高麗仏画のほとんどが日本を主として国外に流出・現存する理由について、中世室町時代の倭寇、また近世初期豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰・丁酉の倭乱)、さらに近代日韓併合時代、に於ける略取が挙げられます。
 一方、平和裡の通商・通交による伝来も考えられます。承天寺に即しては、14世紀前・中期頃の新安沈没船(1975年発見)にあった承天寺塔頭釣寂庵の木簡、応永7年(1400)承天寺が大蔵経を求めたこと(『定宗実録』)、文明15年(1483)承天寺復興を目的として大内政弘が勧進船を派遣したこと(同前)が知られ、また、清寧11年(1065)銘の銅鐘が所蔵されています。さらに博多に即しては、15世紀前中期、30年余に亙って日朝貿易に従事した「石城商倭」宗金、同じく朝琉貿易に従事した「覇家島冷泉津平氏護軍」道安の活動、応仁1年(1467)法華経を求めて僧を送った「冷泉津藤氏母」の存在(『世祖実録』)等々があり、博多を拠点にした官民による盛んな日朝通行が知られています。

 朱、緑青、群青の三色を基本にした彩色、金泥によるほとんどすべての輪郭線、衣褶線の表現、全面を装飾する独特な各種各様の文様、白いヴェールを透かし通して全身を見せる技巧的な表現等々、緻密で華麗な高麗仏画の特色が典型的に示されており、保存状態も良好です。
 高麗仏画に共通する典型的な図様とはいうものの、大徳寺本(リスト89)・泉屋博古館本(同102)・ケルン東洋美術館本(同110)と同様に小柳枝を右手に持つ点が本図の特色であり、高い資料的価値を有してます。
 国際的にも稀少な高麗絵画である点、朝鮮絵画史に寄与し得る美術作品である点、日朝関係を研究・考察するための貴重な史料である点、いづれもかつて対外交通の拠点であった本市の歴史と文化を考える上で貴重な意味を持つ仏画です。