平成9年度指定

絹本著色楊柳観音菩薩像

品質 絹本著色
形状 掛幅装
法量 95.5×47.4cm
巻留 金貼紙墨書「張思恭筆子安観音」「大正五年六月独鳳修補」
桐箱 蓋表墨書「張思恭筆子安観音図」
桐箱 蓋裏墨書「往年老師岡倉先生鑑張思恭筆 大正丁巳秋 嘯月敬題」「嘯月」(朱方印)
時代 高麗時代

 『華厳経』入法界品に説かれる、善財童子が求法の遍歴の途次、補陀落山で観音菩薩に出会う場面を描いた仏画です。日本では楊柳観音、韓国では水月観音の名で呼ばれています。楊柳観音は『法華経』普門品(観音経)に説く三十三観音の一つで、種々の病難救済を本願とする菩薩です。

 大円相中に頭光を負った観音が正面を向いて岩窟の岩座に安坐しています。右膝を立て、右臂を膝頭に置き、自然に伸びた右手の第一指と第三指を軽く拈じています。左足は岩座上で水平に折り曲げ、左手は左膝の背後で垂直に岩座に触れています。
 観音の上半身はほとんど裸体に近く、白の紐を何本か束ねた條帛を左肩から右脇に通し、さらに背中から左脇に回して腹部前方へかけています。赤衣の化仏が坐す宝冠に被った幅の狭い透明なヴェールが岩座の下に流れ落ち、風になびいています。金泥で輪郭をとった朱色の天衣が胸飾りの左右に付けられ、ヴェールの下で翻っています。傍らに楊柳枝を挿した水瓶が描かれています。対岸では頭光を負った善財童子が直立し、やや顔を上げて観音を拝しています。岩座周辺には穏やかな海波が描写されています。
 肉身部の輪郭は薄い鉄描線で朱線を引き、肉身部全体を金泥の平塗りで彩色しています。
 白の條帛には▽状の文様が金泥で描かれています。ヴェールの地模様は白い極細線で描いた麻の葉つなぎ文です。朱色の裳に10〜12弁の金泥の菊花円文を散らして地模様となっています。青銅もしくは青磁を表した水瓶には口縁部、首部、高台部に金泥線が入っています。
 輪郭線、衣褶線は朱と墨が使われ、全体的に余り金泥が使用されていません。

 『筑前國中神佛寳物記 完』(宝永1.1704成)の承天寺の項に載せる二幅(黙庵筆、雪舟筆)の観音像のうち、黙庵筆が本図に該当すると考えられます。また、岡倉天心が『九州・支那旅行日誌』(明治45.1912)で「伝思敬筆 楊柳観音 絹本着色 明初の画F 呉道子風」と記したものでもあると考えられます。なお、黙庵は江戸時代まで元の禅僧と見られていた日本人の入元僧です。思敬は張思恭で、室町時代の『君台観左右帳記』に初見し、長く元の画家と考えられてきた架空の人物です。

 一般的に、高麗仏画のほとんどが日本を主として国外に流出・現存する理由について、中世室町時代の倭寇、また近世初期豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰・丁酉の倭乱)、さらに近代日韓併合時代、に於ける略取が挙げられます。

 一方、平和裡の通商・通交による伝来も考えられます。承天寺に即しては、14世紀前・中期頃の新安沈没船(1975年発見)にあった承天寺塔頭釣寂庵の木簡、応永7年(1400)承天寺が大蔵経を求めたこと(『定宗実録』)、文明15年(1483)承天寺復興を目的として大内政弘が勧進船を派遣したこと(同前)が知られ、また、清寧11年(1065)銘の銅鐘が所蔵されています。さらに博多に即しては、15世紀前中期、30年余に亙って日朝貿易に従事した「石城商倭」宗金、同じく朝琉貿易に従事した「覇家島冷泉津平氏護軍」道安の活動、応仁1年(1467)法華経を求めて僧を送った「冷泉津藤氏母」の存在(『世祖実録』)等々があり、博多を拠点にした官民による盛んな日朝通行が知られています。

 正面向きの図像、片膝を立てた坐法、上半身に條帛を巻く着衣の形態は特異であり、類似の図様としては大和文華本(リスト120)、根津美術館本(リスト128)があります。善財童子が頭光を負うのも本図の特徴であり、上記2点の他には例がありません。また、補陀落山、大円相、竹林、水瓶、海原、善財童子といった定型的な基本構図に比して、竹林を描かず、穏やかな海波だけの海原描写、唐草円文他、高麗仏画に通有な文様が描かれない点も特色です。

 こうした図様の祖型は、北宋・李公麟(1049?〜1106)原画の石刻「水月観音図」(杭州・開化寺六和塔、1132年)や北宋以降の中国彫刻などに求められると考えられています。

 元来、承天寺に伝えられてきた可能性が高い点、高麗楊柳観音の図様が定式化する14世紀以前の画風を持つ稀少な作品である点、朝鮮絵画史・日朝関係史上の稀少な美術史料である点から、本図はかつて対外交通の拠点であった承天寺および本市の歴史と文化を考える上で貴重な意味を持っています。