平成9年度指定

友泉亭庭園

 友泉亭は、宝暦4年(1754)、6代藩主黒田継高(1703〜1775)が早良郡田島村に設けた別荘です。友泉亭の名称は藩儒竹田定直が撰んだ久世通夏の「世にたへぬあつさもしらず わき出る泉を友とむすぶいほりを」からとられました。『筑前国続風土記附録』には福岡城を遠望し、樋井川の流れを水源にした池泉や中島を配した庭園の様子が画かれています。
 藩主の遊興・保養の場、緊急時の避難場所、政治・軍事上の機密を要する合議の場として利用された様です。

 明治維新後には樋井川村所有となり、小学校や役揚として利用されました。

 その後所有者の変転で荒廃していましたが、苑池の地割や石組に従って池泉回遊式の庭園を復元整備して昭和56年から一般に公開されています。

友泉亭庭園の変遷
 友泉亭の往事のたたずまいを伝える記録として、『筑前国続風土記附録』と『筑前国続風土記拾遺』の景観叙述があります。絵画資料としては、『筑前国続風土記附録』と『尾形家絵画資料』(4262)の鳥瞰図があります。
 わずかな資料ですが、樋井川の流れを導き入れたらしい遣り水、亭前に広がる池泉と中島、真砂を敷いた岩組の庭、四時の花木、対岸の小丘陵、それらを回遊するための小径と橋、などが想定されます。
 明治維新後、一部家屋の解体・売却され、樋井川村所有後には程度は不明ですが、花木・庭石・立木の売却があったようです。
 昭和4年、貝島家所有後の改変については若干のことがわかっています。池泉の掘削と埋立てが行われました。その程度と場所については不明です。現存する建物は永野善兵衛(地行東町住)を棟梁とした10名余の手になったもので、古家の解体と古家の修繕も行いました。庭園は山根久吉(博多普賢堂町住)を中心とした庭師の手になったもので、「旧中島」に対して「新小島」を築き、「新島橋台」を作り、また、瀧の石積みをして瀧作りをしました。各種の椿を京都に注文して植樹しました。城谷福松が「北ノ樋閘〔ひのくち〕天場取除」をしました。この部分の池泉は公園整備の際に埋め立てられました。また、公園整備に当たり、庭園東南部の一画に岩組し、水路を設けました。
 以上、明治維新後、幾度かの変転があったにも拘わらず、庭園の基本的な構図、構成、また植生においても著しい改変はなかったと考えられます。

 

 友泉亭は、享保の大飢饉後の政治改革に一区切りがついた宝暦4年(1754)、6代藩主黒田継高(1703〜1775)が造営した藩主の別荘です。
 大名庭園としては広大さを誇る所がなく、むしろ質実・質素である点が特徴になっています。それは経済的理由によるだけでなく、如水・長政時代の質素・倹約を徳とした継高の武人的側面の表現とも考えられます。
 工作物のうち、慶長18(1613)年銘の五輪塔は造立年代からも、特殊な銘からも貴重です。中間市や北九州市の堀川には大規模な唐戸(水門)が残っていますが、友泉亭には東南隅に河水の取水口だった考えられる水門の一部が残っています。当初のものとすれば、これもまた貴重です。
 昭和初年、貝島家によって建てられた現存の建物も近代和風建築の遺構として貴重で、昭和50年代の公園整備に際して保存された旧遺構の礎石列も往時の亭を偲ばせて貴重です。
 植生にあっては、シイ・カシ・イヌマキの大木、樹齢200〜300年と推定されているキンモクセイ等々がかつての庭園の有り様を伝えています。
 明治維新後、樋井川村役場時代、貝島家時代、公園整備時代を通じ、著しい改変があった様子はなく、基本的な構成は現在に継承されているものと考えられます。

 以上のように、友泉亭庭園は池泉回遊式の大名庭園の遺構として、また、様々な歴史を重層的に含みもった遺構として極めて貴重です。