平成6年度指定

福岡藩主黒田家墓所 

福岡市博多区御供所町2番4号 宗教法人 東長寺 代表役員 藤田泰實

 福岡二代藩主黒田忠之(慶長7・1602〜承応3年・1654)、三代藩主黒田光之(寛永5・1628〜宝永4年・1707)、八代藩主黒田治高(宝暦4・1754〜天明2年・1782)の墓所です。

二代藩主黒田忠之の墓

三代藩主黒田光之の墓

八代藩主黒田治高の墓

 墓碑は三藩主とも花崗岩製の五輪塔であり、それぞれの墓碑は四十九本の花崗岩製の卒塔婆で囲まれている。弥勒菩薩のいる兜率天にあるとされる四十九重の摩尼宝殿(「四十九院」)に由来するものであり、亡者を成仏させる施餓鬼棚の意味を持ちます。
 承応3年(1654)2月12日に没した忠之の遺骸は、翌13日東長寺に安置され、在江戸の光之の命を待って3月21日同寺に葬られました。諡は高樹院殿傑春宗英。
 この時、墓所造営のため東長寺の北隣にあった天福寺は通りを挟んだ西側に寺地を与えられ移転させられました(『筑前国続風土記附録』『石城志』)。
 墓前に並ぶ5基の五輪塔はこの時殉死した5名の墓碑です。田中五郎兵衛栄清(龍華院殿春庭永喜)、竹田助之進義成(春嶺院殿花心淨蓮)、長濱九郎右衛門重勝(修徳院殿道壽宗清)、深見五郎右衛門重昌(實相院殿一如真空)、尾上二左衛門勝義(陽桃院殿長壽正仙)。また傍らには、同じくこの時殉死した明厳院(山伏秀栄)の墓碑が建っています。
 宝永4年(1707)5月20日に没した光之の遺骸は、22日東長寺に安置され、26日葬送の儀式があって棺は仮屋に納められました。諡は江龍院淳山宗真。
 この年11月、東長寺東側裏手の聖福寺前町(『筑前国続風土記』では家数19軒)の14軒が移転し、残りは御供所町に編入して聖福寺前町の町名が消えると共に、同地は東長寺境内となりました(『博多津要録』)。光之の墓所が狭かったためとつたえられています(『石城志』)。
 光之は父忠之と約して生前から東長寺を墓所と定め、「葬送儀棺槨の制」に至るまで言い置いていたと伝えられる。また、4代綱政に堂宇の造営と境内の拡張を遺言しました(『黒田家譜』)。
 天明2年(1782)8月21日の治高の逝去は、佐賀藩への長崎番交代依頼、幕府との養嗣子相続確認のため、10月24日まで公表されませんでした。逝去当日崇福寺で法事が営まれた後、11月3日遺骸は東長寺に安置されました。諡は龍雲院徳厳道俊。
 治高の墓石は怡土郡徳永山から切り出され、12月から造立を始め翌年7月に完成しました。
 忠之、光之の墓石の石材の切り出し場は不明です。ただ、二人が奉納した日光東照宮、江戸城の紅葉山東照宮の石鳥居が糸島郡の可也山の石という例があるので、可也山の可能性も考えられます。(9代藩主齊隆は荒戸山の東照宮の石鳥居を柏原山の石で再建しましたが、その墓石も柏原山の石でした。)

 東長寺は大同元年(806)唐から帰国した弘法大師空海が建立した密教寺院と伝えられています。草創の地は博多海辺の地であった行町(現呉服町付近)で、南北朝の内乱で志摩郡志登村に一時移った後、再び旧地に再建されたと言われています。天正年間には大師堂と通称されて博多の寺院の中に一地歩を占めていました。現在地に移転した時期は明らかではありませんが、二代忠之が大檀越なってから寺域の基礎が固まったものではないかと考えられます。
 8代治高の葬儀に際して作成されたと考えられる境内図(東長寺蔵古文書893-2)があります。御成門から石道を進み、忠之・光之の「御塔」の前を過ぎて、治高の「御塔所」前に設けられた「龕前堂」に至る道筋が朱で引いてあります。「龕前堂」の奥には4基の鳥居で四方が囲まれた「下火屋」(荼毘所)が画かれています。
境内図
(東長寺蔵古文書893-2)

拡大図320K


 治高の墓塔建立前のこの図は、忠之・光之の没後に北側、東側へと境内地を拡張した結果を示していると考えられ(北の境界線は奥堂に至っている)、またこの図によって三藩主の墓塔の位置関係がわかります。明治33年の測量図に照らしても三墓塔の位置は少なくとも治高逝去時の位置を保っています。
 現在の境内地は明治43年に営業開始した市内電車開通のため東側に後退し、最近では地下鉄建設のためさらに東側へ25E程後退したものです。また昭和初年に北側、東側の境内地三千余坪を売却したため古図面に比して狭隘感を増すことになりましたが、三墓塔の位置は往事のままに守られています。
古図面 拡大図400K


 以上のように、三藩主墓所部分については当初の姿を伝えているものと考えられるとともに、福岡藩の歴史遺産として本市にとって貴重な文化財です。